(l866~ 1927) ,赤松麟作(l878~1953)が朝日新聞社員であるし,恒富と大正美術会古島商庖の団扇絵は,島成園(1892~1970)の実兄で文展入選も果たした島御風の絵たのが,優れた製版技術者である今井治吉(l876~1945)と岩本一成(l877~1967) 画壇変革を推進した。大阪は朝日,毎日両新聞社の発祥地であり,若い画家には新聞挿絵を描いたり,新聞社に社員として所属したものも多い。洋画家では山内愚僧結成に尽力した九浦も明治41年に大阪朝日に入社して来阪した。恒富も大阪新報社員であり,彼らは新聞を活動拠点とすることで,大阪に根をはる既存画派とのしがらみを離れ,大阪の日本画改革に加わり,大衆の支持も獲得したのではないか。また大阪は印刷業が盛んで,画家もそれに携わり印刷技術者にも美術と関係した人物が多い。江戸時代の大阪は出版が盛んで,近代でも金尾文淵堂やプラトン杜など有力な出版社があった。しかし基本的には東京の印刷に書籍が多いのに比べ,大阪の印刷は商品に直結し,精度を競つ地図,株券,ポスター,絵ピラ,商品ラベル,帳簿,絵画複製などが主力とされた。引札も大阪を代表する印刷物で,明治30年代に色版によるクロモ石版が用いられ,大阪の古島商庖,中井商庖の引札が爆発的に流行する。が有名である(注2)。大阪の印刷業の隆盛は,明治36年に大阪で開かれた第5囲内国勧業博覧会の美術館で,印刷物が美術工芸品と並んで展示されたことでも示されるし,大正3年には業界誌『印刷界』を発行する日本印刷界社主催で,日本初の印刷展覧会が大阪府立博物場で開催された。翌年には同社より各種見本を集めた豪華な『印刷大鑑』も刊行されている。大正11年には前年の東京に続いて,第2回印刷文化展が大阪府立商品陳列所で開催され,22万6500人もが入館した(注3)0 1カ月間の会期でこの入場者数は大盛況であったといえよう。北野恒富も新聞版下の彫刻師から出発するなど印刷と関係が深く,艶麗な美人画ポスターでは一世を風鹿し,大正3年,日本精版印刷合資会社が懸賞募集した「サクラビール」ポスターはl等を獲得して7万枚が発注されている。その恒富と親密で、あっである。両者とも後に独立して印刷会社を設立するが大阪画壇とも密接に関係した。本研究成果の一部として,恒富の画風形成と大阪の日本画変革に関係し,それを裏面から支えた今井治吉と岩本一成について報告したい。大阪の画壇と恒富の来阪江戸時代の大坂では,r山中人鵠舌』で摂派と呼称されて写生派や文人画が栄えた-95-
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