鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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百穂,古径ら169点,京都が景年,栖鳳,翠障,松園ら121;点,大阪が森琴石(1843~~ 1907),阪田耕雪(1871~ 1935) ,伊勢庄太郎(正盛堂),京都の歌川国恋宛の紹介状1921),深田直城(1861~ 1947)ら75点である。会場内の萩尾九皐の全国書画倶楽部にが,近代になると新時代の美術振興を意図して,明治17年に樋口三郎兵衛の援助で私立の浪華画学校が設立されている。同校は京都府画学校(明治13年開校),東京美術学校(明治20年設立)と並ぶ早期の開校であったが明治25年頃に閉校になったらしい。大阪画壇の転機となるのが明治36年,大阪で開催された第5囲内国勧業博覧会である。開催地が公表されるや大阪朝日「大阪の董界に警告すJ,東京日々新聞「塞苑鏡舌jなど批判が噴出したが(注4),博覧会は大盛況で,前固までの内国博入場者数110万前後に対して400万人以上が入場した。会場内の美術館の公募展も日本画,洋画,工芸に加えて写真,印刷物に及ぶ。日本画も4~500点が陳列され,内訳は東京が雅邦,は画家が常駐した(注5)。また内国博が「我大阪に於て開催されしを機として一家を移し来jた西川桃嶺はじめo浪華摘英Jl),尾竹越堂(1868~1931)とその門人の金森観陽(1882~1932)など,この時期に来阪した画家も多く,明治末大正初期の大阪の新美術団体結成に関与していく。明治40年の文展開催では,開催が予告されるや同年3月に大阪美術会が結成されるなど大阪の画家たちを刺激した。しかし第l回文展での大阪画壇は不振で,日本画の入選総数99点のうち東京58点,京都33点に,大阪は平井直水(1861~ 1918)のl点が入選しただけである。不成績の原因を中川草月塾の「尚美曾曾報J(明治40年)は美術に対する大阪人の著しい意識の遅れと指摘する。さて北野恒富は金沢の十間町に生まれた。全文をここに紹介する余裕はないが,恒富自筆の履歴によると(以下「履歴」と表記),明治25年,小学校卒業後,地元金沢の銅版木版書画版下業の精明堂で版下を彫る彫刻師となり,他の彫刻師などを点々とした後,明治30年,彫刻師中山駒太郎に伴われて北園新聞に勤めた。しかし画家を希望し,中山の「画家ハ都曾ニアラネパ面白カラズJとの勧めで大阪の稲野年恒(1857? を手に来阪する。年恒,耕雪も金沢出身で,伊勢は年恒の彫刻師である。年恒は可雅仙人を号し,月間芳年,幸野楳嶺に学び\大阪毎日に招聴された。明治26年のシカゴ世界博覧会から帰国後,西洋画法折衷の新機軸を出したという(注6)。明治29年に朝日に移り,挿絵を担当した新聞小説数で明治中期の毎日,朝日両新聞を支えた画家であった(注7)。耕雪は恒富と同じ金沢十間町に生まれ,尾形月耕に学び,明治29年に96

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