鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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大阪毎日に入社して小説挿絵を描いた(注8)。後に恒富の勧誘で大正美術会に参加する。明治30年,来阪した恒富は西区新町一丁目(現大阪市西区)の伊勢正盛堂に彫刻師として寄宿し,翌年,年恒に入門する。年恒の画風は「その給量の品位は桂舟,清親,二子以上にあれども,絢:欄目を喜ばす的の鎗にあらねば,所謂る新聞護者なる婦女子の評判を買ふ能はず」と評され(注9),恒富の艶麗さとは異なるが,年恒から恒富は挿絵画家に必要な画題への理解力や,構築的な室内描写,構図法も学んだと思われる。年恒は恒富に色彩の勉強も勧めたが,この指導は線描主体の挿絵画家としての自戒であったかもしれない(注10)。恒富と今井治吉明治31年に恒富は,神戸新聞の依頼で↑昼間恒房と彫刻担当の伊勢に従い神戸に赴く。水島爾保布は当時の恒富が「大阪でも有数の『胴彫り』の一人」であったと伝える(注11)。しかし翌32年に「心中甚ダ柴シカラズ。奮然意ヲ決シ,彫刻用道具ヲ橋上ヨリナゲ捨」て彫刻を廃業し,西区阿波座中通リ壱丁目の今井兵四郎の庖の聞を借りて版下を描いて生活する。兵四郎は今井治吉の義父の木版彫刻師今井兵次郎と思われ,当時の阿波座は兵次郎のほか寺西三五郎ら有力木版彫刻家が住み,印刷の「版画家の町という観」があったという(注12)。同年11月,恒富は月刊新聞「新日本jに初めて小説挿画を描き,I履歴jはこの時期の恒富が「当時今井治吉氏等ト共,洋画ノ研究ヲシッ、アリ」と記す。『今井先生追ら彫刻業の父の急逝で来阪し,中田印刷所に入社して石版や銅版技術を学んだ。中田印刷所は,石田旭山に銅版彫刻術を学んだ中田貞矩が明治18年に設立したもので,明画に艶ニスをヲ|く額面用光沢石版画も売り出す。明治38年,煙草専売制とともに包装紙をアルミ版で印刷する指定工場に指定され,大阪市南区に日本精版印刷合資会社を創立した(注13)。今井はこの日本精版設立で意匠部(版画)主任となる。石版では原画を写して元版を仕上げるレタッチマン(手描画者)の高度な技術が要求されるが,今井は技術研鑓のため,明治38年頃から!愚悟の月例写生会に出席し,明治20年頃に銅版を石版に転写した地図,株券,ラベルで好評を博し,明治22年,石版治39年には岩本一成,織田東兎,前川虎山らを発起人に研究会として一日会を結成,憶j(昭和37年刊)によると今井治吉は恒富と同郷の金沢に生まれ,旧藩儒の家柄なが-97-

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