刷の色彩分解に優れていたと伝わる。今井は太平洋画研究所の講習にも参加し,中村不折にデッサン,油絵を学んだ〔図1J (注14)。明治43年,門下の作品を講評した機関誌『批評j(雪窓会)を刊行,さらに松本硯生,織田一磨ら洋画家や耕雪,観陽とも親しく,耕雪に雪湖の画号を貰った(注15)。恒富の「洋画ノ研究」の実態は不明で,恒富が油彩画を描いたとは思われないが,印刷技術の研鑓を目的とする今井との「洋画ノ研究」が恒富の画風形成に影響を及ぼしたことは間違いなく,初期の恒富作品には洋画風の写実表現が顕著である。これに関して川西由里氏が,大阪市立近代美術館建設準備室所蔵の恒富筆〈摘草〉をとりあげ,石版画と似た陰影法が人物描写に認められることを指摘する(注16)。明治34年,恒富は大阪新報に入社し,10月に行友季風の小説「多田亀吉jI北海熊」の挿絵を描いた(注17)。愁歩生は「新報の恒富子,筆に梶気ありといへども,才鋒鋭利,以て新報の紙面を鋳るに足る」と評している。事件現場も取材し,明治38年の堀江六人斬りの現場には記者と駆けつけた。またこの頃,恒富は今井と同居し,今井から漢文を学ぶ(注18)。恒富門下の樋口富麻目によると,大正4年に恒富が腸捻転で緊急入院した時,呼び出され後事を託されたのも今井であったとする。肉親同様の交流のあった今井と恒富だが,両者の親密な関係はポスター制作に結実する。恒富のポスターには明治43年の「朝のクラブ歯磨j,明治44年の「神戸湊川貿易製産品共進曾j,大正2年の「福助足袋jI菊政宗j,大正3年の「サクラビールj,大正5年の「たかしまや飯田呉服庖j(以上色刷石版),昭和2年頃の「足利本銘仙j,昭和4年の「開国文化大博覧会及び『キモノの大阪』春季大展覧会j(オフセット)があり,今井が「菊政宗jI朝のクラブ歯磨jなどを作版して印刷した。恒富と今井は平生から画論をたたかわせたり,印刷の技術論をよく話しあったと言い,二人の熱意が名作ポスターの誕生に大きく寄与したと言えるだろう。なお「サクラビール」等と同じモデルによる恒富の印刷物原画と思われる肉筆画を今回調査したが,本図にも面貌描写などに洋画風の表現がみられる〔図2J。大正12年,日本精版印刷が市田オフセット印刷と合併して精版印刷株式会社となり,今井は支配人兼技師長となった。市田オフセットは大正4年に市田幸四郎が設立し,大阪商船など大型ポスターで名声を馳せた会社で,最新のH'Bプロセス法など石版画家と徒弟の技術向上を目的に広瀬勝平(l878~1920),赤松麟作,宇田川通愉ら洋画家を指導に招いた。東兎は織田一磨の実兄の洋画家織田明(l873~1931)で,印-98-
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