鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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も早くにとりいれた。昭和4年に今井は独立し,日本版画印刷合資会社を設立する。恒富と岩本一成岩本一成は京都の木版印刷業者の家に生まれ,少年時代に竹内棲鳳(栖鳳),久保田米悟に学び,明治27年より石版印刷を修行し,東京,横浜の印刷所を経て明治35年に大阪石版会社に入社する。田村豊盛堂上海英商鴻文公司古島印刷所,市田オフセット印刷で版画部主任を歴任,昭和5年に岩本写真平版社を創立した。昭和42年に『遺稿我園の絵画と印刷j(以下『遺稿j)が刊行された。岩本と恒富の関係は,印刷以上に,恒富創立の美術団体で常に総務をつとめ,大阪画壇運営を実務面で支えた点にある。第5囲内国博後の大阪の絵画界は「寂然として声無くなり,何の会某の会と称したるものは執れも幽霊の如く消え失せたりJ(大阪毎日新聞)と沈滞したが,内国博の華々しさは多感な青年画家たちを刺激した。明治37年に平野晃岳,船川華洲,久保井翠桐らを幹事に浪華青年画会が結成された(注19)。続いて恒富や岩本らにより大阪絵画春秋会が結成される。第1回文展の頃,岩本は造幣局泉布館に滞在中の大観を恒富耕雪と訪問し大阪画壇振興に尽くすよう激励される。そして岩本によると「日露戦後の大阪重壇は惇統的な四候派の奮態を脱せず,沈滞せるを慨して有志と共に則ち四候,園山派を本董と稿し世間より別途に取扱はれてゐた挿槍董家と云はれし人々jである越堂,恒富,観陽,一成の四人を発起人に大阪絵画春秋会を結成したと言う(注20)0 i本章jではなく「挿精霊家」として差別的に扱われていた画家たちが結集したことが注目される。春秋会は会員30余名を有し明治43年に第1回展を大阪書籍倶楽部に開いた。『遺岡本大更(l872~1945)ら日本画家や,慶瀬勝平,赤松麟作,宇田川通愉ら洋画家を発起人に春秋会を結成したとするが,r上方j140号(昭和17年9月)に明治40年9月,北久太郎町心斎橋筋西入寺院での春秋会同人写生会の写真〔図3Jが掲載されており,春秋会は明治40年には存在したのかもしれない。写真には恒富のほか上田海舟,耕雪,一成,観陽,越堂,一舟,伊藤渓水,山岡箕園,長谷川小信,磯遺恒延,谷崎芦洲,勝平,麟作らジャンルを越えた大阪の新進画家が写されている。続いて同じ明治43年12月に巽画会大阪支部の発会式が会員30余名を集めて聞かれた。発会式当日は,岡本大更を座長に評議員が選挙され,九浦,恒富,翠桐,耕雪,稿』では明治42年に岩本が恒富と協議し,上記四人に耕雪,浅田一舟(1872~1920), -99-

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