立士三五小口口口大更,華州,晃岳,山口培華,佐竹藍川が選出された。メンバーからみて巽画会大阪支部は晃岳,落華ら青年画会と恒富ら春秋会が合流したことが分かる(注21)。そして大阪の日本画変革を加速させたのが大正元年の大正美術会である。紫生「大阪董壇の勢力戦J(W中央美術』大正5年)によると,大正美術会は恒富が九浦を説き,菅楯彦,上島鳳山と組んで結成され,創設には大更,耕雪,観陽,晃岳,翠桐,渓水,水田竹圃,伊藤直麿も参加した。巽画会大阪支部の評議員9人のうち6人が集い,同会は師承関係を越えて連帯した巽画会の性格を継承したと考えられる。岩本は恒富と大阪画壇の将来を論じて「大阪画壇の中心となるべき,一大合同の会を結成して奨励の為に展覧会の開催が必要」との結論に達して同会結成にも参加し,会の総務をつとめた(注22)。大正美術会は結成時から,在阪の写生派系新進画家,中川和堂の土筆会と対立するが,両派とも大阪画壇刷新の志は一致し,大正3年に大阪三越支庖長と美術部長北村鈴菜の仲介で,大阪での権威ある公募展として大阪美術展覧会(大展)が設立される。翌大正4年に第I回展を開催,戦時中まで毎年開催された。岩本は大展でも総務をつとめ,第l回展で自作の〈雪中梅図>c図4Jが入選する。もう一つ岩本で特筆すべきは,大正2年に大阪出品協会を組織したことである。これは大阪から文展出品するための手続きや作品搬入,返却を円滑に行うために結成された組織で,文部省の承認指示によるにもかかわらず大阪市や大阪博物館が運営に消極的なため,岩本は協会の籍を御殿山の大阪美術学校,事務所を自宅におき,文部省の運搬補助金300円も得て運営の中心となった。そして大正7年1月,京都の土田麦悟らが国画創作協会結成を発表した翌日,恒富らはそれに対抗するかのように大阪茶話会の結成を発表した。茶話会は短期間で終わったが,島成園の〈無題>(大阪市立美術館所蔵)など大正期らしい作品が生まれている。同会趣意書の発起人には恒富ほか観陽,翠桐,山口草平,矢野橋村,福岡青嵐,水田竹圃,島成園,草野芦江とともに幹事岩本一成の名がある。大阪の日本画変革に名を残す画家の多くは挿絵画家として新聞社に関与したり,印刷に携わった事実は興味深い。特に恒富は印刷業や新聞から登場した画家であり,新聞との関係では,大正5年の大阪朝日連載開始の佐藤紅緑「裾野j以降,一時筆を折-100-
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