鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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注(1)橋爪節也「商都の色彩と日本画家恒富Jr浪華の粋近代大阪の日本画名品展J市(2) r美術旬報』第157号,1918年(3) 島屋政一編『印刷文化展覧曾』印刷文化展覧曾協賛曾発行,1922年(4) 青木茂監修・東京美術学校編『近代美術関係新聞記事資料集成』ゆまに書房,(5) r第五囲内園勧業博覧曾美術館出品圃録J1903年。東京国立文化財研究所編『内国(6) r上方J138号・明治挿緒董家競,1942年。井川洗崖談「師匠の飼い猫を殺して破(7) 高木健夫編『新聞小説史年表』国書刊行会,1987年(8) r大阪現代人名辞書J1913年(9) 愁歩生「新聞の挿董J1903年4月1日,掲載紙不詳(10) 樋口富麻呂「北野先生Jr美術と趣味J特輯北野恒富競,1939年似)水島爾保布「董師と彫師Jr名作挿画全集J第4巻附録同近藤錦三「立売堀時代(ー)Jr今井治吉先生追憶』所収~4) 岩本一成「今井先生と私J,中村源次「今井先生を偲ぴてJ,大沢保正「追憶Jほっていた小説挿絵を再開している。また大正11年の印刷文化展覧会(印展)には白煙杜の名称で,自作や門弟のポスターなど印刷物を出品する〔図5J。同展規約で個人出展が認められないことや,今井ら知人の依頼もあったと思われるが,美術院同人として“本絵画家"の立場を不動にしたはずの恒富が画塾の名称を用い,I印刷の図案を業とするj図案屋として出品するのは彼の商業デザインや印刷への関心を示すものと思われる。そこには「本董Jに対して「挿槍董家」として蔑視されたことに発奮し,新団体を次々結成した恒富らしい産業都市大阪に生きる画家の自負心さえ感じさせる。今井治吉,岩本一成の二人で大阪の印刷界が代表されるのではないにしろ,恒富を支えた彼らの活動がさらに明らかになれば,大阪の日本画壇の特質が一層明瞭になるものと思われる。立枚方市民ギャラリー,1997年勧業博覧会美術品出品目録J1996年門された稲野年恒j名作挿画全集第4巻附録同『大阪印刷百年史』大阪印刷百年史刊行会編,大阪府印刷工業組合発行1991年-101-

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