によきゅうまきしませいぞう⑪牧島如鳩の宗教画について研究者:足利市立美術館学芸員江尻知鳩牧島省三(明治25-昭和50年1892-1975)の作品は遺族である白江和香氏によれば日本画,油彩画ともに1000点を越えるという(注1)。彼はハリストス正教会の伝教者であり,明治の女流イコン画家山下りん(安政4-昭和14年1857-1939)よりイコンの手解きを受けたとされているがイコンのほか仏画,日本の神の姿,さらには仏教とキリスト教を習合した図像を描いた。収蔵されている場所も寺院,教会,神社と様々である。日本画,油彩双方に熟達していたが,絹本や紙本に油彩をほどこし軸装や襖仕立てにしたものも多々みうけられ技法においても洋の東西が混請している。筆者が確認し得た如鳩の作品は下絵を含めて500点,本画のみだと150点にすぎないが,その大半が宗教画でありそこにはなみなみならぬ彼の信仰告白がうかがわれる。しかも宗教画のほとんどが戦後に描かれており,他に類例を見ない独自性を備えている。本稿では目下確認し得た作品により彼の宗教画を支えたものが何であるのか明治後半から大正期の思潮,同時代の作家,さらにはハリストス正教を参照して明らかにしてみたい。如鳩の生い立ちについては拙稿「法衣の画家牧島如鳩J(注2)において触れたのでここでの重複は避けるが,父百時について新たなことが分かつたので記す。東京都文京区向正の願行寺には百械を顕彰した「閑雲先生害蔵止碑」が残っている。これはもと足利にあったが,道路拡張のため撤去を求められたため,昭和40年ころ如鳩と百械の弟子によって当時知鳩が庵を結んでいた願行寺に運び込まれたものである。高き2メートル余りの立派な石碑であり,大正8年,百椋七十歳を記念して建てられた。これによると百株は嘉永4年(1851)12月下野梁田村に生まれた。字は轍,号を閑雲とし,通称恒次郎といった。本姓は正田といい,のち牧島家に入り御厨村上渋垂(現在の足利市上渋垂町)に移り住んだ。父,日和惣司は秋山要助に従い剣法を受け,母は小島氏の出であり館林の人で茶儀を善くした。百椋は館林城主秋山侯の儒臣田中泥斎に漢文を習った。百聴は家業を治めたが産を成さず帰農してハリストス正教を信奉し,彼得と号した。百械の性格は温雅,廉潔であり,弟子たちを集めて学を講ずること三十年,また,画を好み田崎草雲に師事した。次に加藤欽古に師事し,都都の画会において金銀の牌,銀盃を得た。弟子たちは画会を設けて抽載にて作品を頒潔-105-
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