布し,以て郷警の教育費にあてた。以上が碑文のおおよその内容である。百臓は号を閑雲とし,足利出身の幕末の南画家田崎草雲(1815-1898文化12明治31年)に師事し,次に加藤欽古に師事している。加藤欽古は天保2年(1831)の生まれで下野出身の人である(注3)。如鳩の画才は父親ゆずりと思われる。彼の最初の絵画の師は父閑雲であり,また彼は父をはじめ家族を通じて生まれたときからハリストス正教に深く接した。のちの如鳩の方向性はごく幼い時期にすでに兆していた。如鳩と山下りん少年省三が明治40年東京神田駿河台のニコライ神学校に入学したのは父の意思であり,彼はそこで「大主教ニコライ祝福のもとに聖像(イコン)の修得をなしJ(注4) た。同女子神学校内宿舎に山下りんが工房を構えており,省三はりんからイコンの手解きを受けたとされるが,具体的にどのような指導を受けたかは不明である。ただ,りんが省三少年を聖名パウェルからパーちゃんと呼んでいたこと,りんにお使いをたのまれていたことをのちにまわりの者に対して如鳩自身述懐していたという(注5)。さらに今回新たに発見された如鳩自筆の年譜に「大正九年ニコライ堂に於て教務につき併て聖画を描く」とあり(注6),りんがニコライ堂を出て帰郷した2年後に如鳩は再びニコライ堂に戻りイコンを制作していることが分かつた。また同自筆年譜によれば如鳩と号したのは昭和元年頃だという。知鳩のイコンはりんのものと比べるとやや生硬な感じが否めないが,表情はりんのものより東洋的であり親しみ深い。源泉を同じくしていると思われる〈ゲフシマニヤの祈り>(注7)に関して言えば,りんのもの〔図1]が岩の描写まで原画であるフヨードル.A・ブルーニ(1799-1875)の〈ゲフシマニヤの祈り>c図2)に忠実であるのに対して如鳩のそれ〔図3)は岩に獅子のような凸部が現れアクセントをなし画面上端がアーチ型になっている。ハリストスのかかとや画面右の月も描かれていない。両者とも,日本に渡ってきた石版画をもとにして描いているため一概には言えないが,如鳩の方が原画の細部に拘泥せず描いているように見える。さらに如鳩の〈ゲフシマニヤの祈り〉にはイコンとしては珍しく年記と署名が左下にあり,これを見ると昭和9年に描かれているのが分かる。しかし,なぜ、如鳩は無署名を原則とするイコンにサインし得たのであろうか。如鳩の宗教画はサインされているものが少なくなく,中には展覧会に出品されたものもある(注8)。如鳩106
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