には,イコン画家であるとともに「世俗の」画家としての意識もあったのではないか。そこには同時代の画家との交流も当然あり時代の大きな流れとも無縁ではなかったと思われる。次にこのことについて見ていきたい。河野通勢との交流白江和香氏によると知鳩は河野通勢(1895-1950明治28-昭和25年)と非常に仲が好かったと語っていたという。今回の調査で如鳩自筆の住所録を見付けたが,そこには通勢の長男である河野通明の名があった。残念ながら戦前期の住所録は発見することができず,通勢の名は確認できなかったが,河野家と牧島家は縁の深い間柄であることが分かつた。通勢の父,次郎は安政3年(1856)足利藩の下級武士の子として江戸上屋敷に生まれているのである。足利藩には南画家田崎草雲がおり次郎の父は草雲に羽子板や凧の絵の仕事を依頼し生活を援助していたという。次郎も草雲に南画を学び,草雲の一人息子格太郎に兄事したとのことである(注9)。如鳩の父百聴も先に述べたとおり草雲に師事しており,ともに足利に住んでいることから,おそらく両者は面識があったのではないか。百械が草雲の弟子になったのは明治6年(注10)であり,次郎は子供のころより草雲に習っている(注11)ので次郎の方が兄弟子ということになる。次郎は明治7年高橋由ーに洋画を学ぶため上京しており(注12)少なくとも明治6年から明治7年にかけてともに草雲の画室に出入りしていたことになる。明治9年次郎は再び足利にもどり小学校の教師になる。その後愛知県や松本,長野の師範学校で図面の教師を務めた。明治28年長野師範学校を退職し,写真館を開業,この年通勢をもうけている。次郎と百株は別の道を歩むが,ここで再び共通点を見出すことができる。明治37年,次郎と通勢のハリストス正教への入信である(注13)。明治37年といえば日露戦争が勃発しており,ロシアへの反発が深まるなか河野父子は入信したことになる。この時期ハリストス正教は様々な迫害を受けていた。正教徒はロシアのキリスト教を信じているのだからロシアのスパイ(露探)だと周囲から罵倒され村八分にされたという信者の報告が日本各地からニコライにょせられた(注14)。巷では好戦的な演説会が聞かれニコライを「退治jせよと叫ぶ者が現れた(注15)。このような迫害のさなかに敢えて入信するには相当な覚悟が必要だ‘ったのではないか。百践の一家も周囲の信者が離反していくなか堪え忍んだという(注16)。そのような状況のもとで信者同志の結束は堅いものとなっていった。ちなみに百株は足利におけるハリストス-107-
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