教的」雰囲気である。通勢の作品はキリスト誕生を主題としながら当の出来事は画面中央上に小さく描き込まれ,マリアとヨセフとおぼしき人物は裸体で表現されている。キリストも光背がなければ,それと気づくことができないほど申し訳程度に描かれている。それに引き替えこの三者を取り巻く移しい裸体の群は画面を埋め尽くし,完全に主題となるべき出来事を圧倒している。そのためこの絵は一見してキリスト教の図像には見えず,ギリシア神話を描いたものに見えてしまう。熱気を帯びた裸体の群は,イエスの誕生をことほぎ祝祭しているというよりはむしろパッコスの祭儀の興奮の渦中にいるようだ。前年,通勢はデューラーの〈パッカナール〉の模写と思しき素描を残しており(注24),この絵にもその影響があるのではないだろうか。一方,如鳩の作品は仏画であるが,同じく「誕生」を主題としている。通勢のものとは逆に生まれたばかりの釈迦が異様なまでに巨大に描かれている。釈迦を中心に,通勢作品と同様懸しい人物像が取り囲むが,着衣の摩耶夫人や帝釈天などのほかは無数の裸体の童子により画面が埋めつくされている。これらの童子はルネサンスやバロック美術に現れるプットーを思わせる。画面右隅に描かれた楽を奏でる天人たちはキリスト教の図像の奏楽天使を連想させ,光の中に融け入るように描かれた天人たちは神を賛美しては次々に消えてゆく天使のようである。これらの図像によりこの作品は多分に西洋的,キリスト教的な雰囲気を帯びる。さらに通勢,如鳩のふたつの「誕生画Jに共通しているものは宗教的熱狂とでもいえる過剰なまでの生命力である。この生命力の源はいったいどこにあるのか。二人がハリストス正教徒であるためか。確かにハリストス正教会の属する東方正教会はルネサンスも宗教改革も未経験であり,土着的要素が濃い。しかし,それだけでこのような図像は描き切れないのではないか。東方正教の神秘性を受け止めるにしてもまずその「土壌jがなくてはならない。この土壌とはいかなるものなのだろうか。次に二人が生まれ育ったころの思潮,明治後半から大正期にかけての時代思潮に照らし合わせこの土壌がどのようなものなのか探ってみたい。明治から大正にかけての新思潮明治20年前後,日本は近代国家形成に一段落っき,列強に対して自信を取り戻す。同時に外圧に対する抵抗からナショナリズムが芽生えていた。三宅雪嶺らは明治21年(1888)政教社を設立し,雑誌『日本人j(同年創刊)によって西洋文化の無批判な模
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