ハU倣を批判し,日本固有の伝統を重んじる国粋保存主義を唱えた。明治30年代になると詩人たちも異国の文物をたどたどしい口調で真似るのではなく,自身の血肉から言葉を生み出そうとした。たとえば蒲原有明は「日神領歌JU草わかば』明治35年刊),r佐太大神JO濁絃哀歌J明治36年刊)のように『古事記』ゃ『日本書紀Lr出雲風土記』に取材した作品を発表する。「日神領歌」はオオヒルメムチすなわちアマテラスオホミカミを賛美しており,古代の言葉がちりばめられている。薄田泣董にしても記紀神話に基づいた詩がかなりある。これらは島崎藤村の『若菜集』とは異なる系譜であり,明治30年代のナショナリズムとも関連があるとされている(注25)。しかし,それらの詩がナショナリズムでは割り切れない清新な気風を保っていることは否めない。ちょうどラフアエロ前派や後期ロマン主義を日本古来の言葉と神話でくるんだ印象を与える。美術にあっても同様の動きが起こる。青木繁の〈黄泉比良坂>(明治36年),<大穴牟知命>(明治38年),<わだつみのいろこの宮>(明治40年),藤島武二〈天平の面影〉(明治35年)など日本神話や古代に主題を求めた作品が数多く生み出される。これらの作品もまた詩作品同様初々しい気風に満ちている。自身の根元を確認する動きとともにこのころ,西洋からは象徴主義をはじめ神秘的な思潮の受容が始まる。明治43年には鈴木大拙がスウエデンボルグの『天界と地獄』を翻訳し,学習院の教え子である柳宗悦にも影響を与えた(注26)。この時期に西洋の神秘主義を積極的に取り入れる傾向が始まるが,その背景には強権としての国家が形成されるにつれ否応なく深まっていった閉塞感がある。その反動としてけっして国家や外的状況に縛られない「もうひとつの意識」が求められたのは想像に難くない。アナキズムもそのひとつの現れであり,現状打破に向けフィジカルにはたらいていった。一方では精神の深層に深く沈潜し,いかなる権力も及ばぬ霊的な領域において新たなる個我意識を形成しようとした。前者はアナキストを生み出し,後者は宗教家,神秘主義者を生み出した。両者は一見して外界と内面という正反対の方向性を持つように思えるが,ひとつの根によって結ばれている。それは生き生きとした己を取り戻そうとする生命への希求である。実際双方は複雑に交差しつつ展開していく。そのような心的状況のもと西洋の神秘的思潮の受容は一種のブームとなり明治末から大正12年の関東大震災ころまで続く。さらに,先の日本の土着的なものに対する再発見とリンクして神道や仏教,キリスト教がj軍然一体となってしまうような根源的な場において新たな思潮が形成されていった。明治38年の綱島梁川の「見神j体験はキリスト教と仏教の境を越えるようなものであ
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