ったという(注27)。〈誕生釈迦像〉の特異性ともに明治20年代後半生まれの如鳩と通勢はこのような時代に生れ育った。東西の神秘主義が合流し,さらにハリストス正教というルネサンスを経ていない多分に土着的要素の濃いキリスト教の影響を受け凄まじいばかりの生命力溢れる図像が形成されてくる。通勢の初期の作品に裾花川の河柳を描いたものが少なくないが,そのうねるような樹木の描写は尋常で、はない何ものかが木に宿り,ざわめいているように見える。通勢は河柳を描くとき必ず一札していたそうである(注28)。自然の内に神を見出す汎神論的心情が感じられるが,このような感覚は知鳩にもあり,庭先の石を通して天地を創った神を愛せよといった意の歌を残している(注29)。ただここで注意しておかなければならないことは如鳩作品の多くが戦後描かれたものであることだ。上述の如鳩の〈誕生釈迦像〉は着手こそ昭和戦前期であるが完成したのは昭和35年であり,以後昭和50年83歳で死去するまで一貫して土着的で生命力溢れる作品を数多く描きえた。通勢が比較的早く世を去っているので一概にはいえないが,そこには通勢にはない何か別の力がはたらいていたのではないか。さらに先に触れた知鳩と通勢のふたつの「誕生画」の決定的な違いは知鳩の絵が祈りの対象として描かれていることである。この作品は「戦争中に平和祈願を込めてj描いたものであると如鳩自身書き残している。それによると終戦になりそのまま東京本郷の願行寺に預けて旅に出たのち完成させ昭和35年第31回第一美術展に出品したものだという(注30)。願行寺によればこの作品は第二次世界大戦末期の空爆が激しくなるなか神田のニコライ堂の片隅で描かれており,そのときの砂を被った跡があるという。終戦後願行寺本堂に運ばれ引き続き制作されたが,制作する知鳩の背後で,のちの龍津寺第十世住職中川宋測(1907-1984明治40-昭和59年)が般若心経を何度も唱えていたとのことである。宋測は明治40年生まれで知鳩より15歳年下であるが,後年,イエルサレムに赴いたりニューヨークに禅堂を建立するなど世界的視野の持ち主だ、った。如鳩と宋測は昭和の初めころ願行寺で出会っており,以後終生にわたり肝胆相照らす仲となった。宋測は飯田蛇坊の門に入り俳句をよくしたが,知鳩にもその影響がうかがわれる。また,宋測の詩稿「悌誕生空爆抄J(注31)には「ニコライ堂ニ悌誕生ノ大聖画生ルjという記述があり,この「大聖画jは,おそらく〈誕生釈迦像〉のことと思わ
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