ちJである知識階級の神道家が信奉するものを「本当の宗教jではないと鋭く批判しわれず楽しいものだ、ったという。いったい一個人のうちにいかにしてキリスト教と仏教,はたまた神道が何の矛盾もなく根付いていたのだろうか。次にこのことについて考察してみたい。それにはまず,ハリストス正教のもとである東方正教についておさえておく必要がある。東方正教の土着主義東方正教はオーソドックスと呼ばれカトリック(普遍的なという意をもっ)やプロテスタントと異なりルネサンスも宗教改革も経験していない。よって東方正教はキリスト教の他の宗派の人々にとって「土俗的なキリスト教J,I異教的古代の水準に留まるキリスト教」に映るという(注34)。超民族的な普遍的教会を志向するローマカトリックと異なり東方正教は元来,I土着主義jを旨としているという(注35)。そのため正教を信奉する諸国はそれぞれの母国語により荘厳な祈祷を行い,福音を聞いた。日本に東方正教はロシアよりニコライによってもたらされたが,ロシアはおよそ今から一千年前,東ローマ(ピザンチン)帝国より正教を取り入れ国教として定めた。15世紀半ばコンスタンチノープルが陥落し,東ローマ帝国が滅びるとモスクワは第三のローマとしての自負を育んで、いったが,ロシア人はキリスト教を独自な仕方で受容していた。彼らのキリスト教はピザンチン教会ほどには哲学的ではなく,ラテン教会ほどには制度的でもなかった(注36)。ロシアのキリスト教は他の宗派と異なり自分たちの信仰生活を尊重することを旨とし,より自然で直哉なものだ、った(注37)。素朴でシステム化されていない分,神との距離が近かったのではないか。もちろん日本に正教をもたらしたニコライにしてもこのような感覚を多分にもちあわせており,日本の宗教的土壌へはひとしお共感を寄せていた。彼は神道について「神道の釈義家たつつも,庶民のなかに残っている神道の習慣には好感を覚えている。たとえば旅龍に泊まって朝起きると,あちこちで日本人がお日様に向かつて柏手を打っていることに対してニコライは感心している(注38)。また仏教にしても富山から福井に向かう途中,蓮知忌に出会い何万という人々のあいだに,一人として酔っ払いも不作法者もいなかったことに驚き,I日本国民は,三つの宗教つまり仏教,儒教,神道という三人の養育者と,もうーっその厳格な政府とによって,この世に生きるための,称賛に値する良い蝶を受けた。この良い撲が北陸道のような外国の影響の及ばない地方において114
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