鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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11Jが15年かけて描かれたことからもうかがわれる。いずれにせよ戦後次々と,如鳩はまだ完全に残っているJ(注39)と書き残している。さらに興味深いことに,この北陸の旅で仏壇に注目し,Iイコンを納める厨子として使わない法があろうかJ(注40)と思いをめぐらせている。ニコライは仏具でも聖別すればキリスト教に使うことができると考えていたのである。ニコライは日本にある土着の宗教を全否定して,いわばさら地にキリスト教を移植しようとは思っていなかった。太陽や聖者,仏壇をあがめる日本人であればこそ,キリスト教の神や聖人,イコンの尊さを感じ取ることができるはずだとニコライは直感していた(注41)。そこには土着のものを大切にしようとする東方正教の懐の深さが感じられる。如鳩もまた最晩年のニコライの馨咳に接し,まず自分たちの宗教を理解しなければハリストス正教を広めることはできないとのニコライの教えを肝に銘じていたという(注42)。先述したとおり長野時代如鳩は仏教に出会い,熱心に勉強したというが,その背景にはニコライの教えがあったのではないか。キリスト教を伝えるにはまず土着のものを学び\決しておろそかにしてはならないという意識が如鳩のうちにもあったと思われる。しかし,まったく抵抗なく最初から仏画が描けたわけではなかった。それは最初の油彩仏画といわれる伊東の朝光寺蔵〈浬繋像}(昭和17年頃c.1942) (図はキリスト教のイコン画と同時平行的に仏画を手がけたが,それは東方正教の土着主義があってこそはじめて可能になったと思われる。しかし,それのみでは知鳩の作品を包む霊的な雰囲気は説明しきれない。次に如鳩を創作に向かわせた彼の「芸術意欲」を探ってみたい。如鳩の「芸術意欲」如鳩には不思議な出来事に対する関心が少なからずあった。昭和26年作の作品に〈龍ヶ津大嬬才天像)(図12Jがあるが,この作品は福島県いわき市常磐水野谷町竜ケ沢という場所でおこった不思議な出来事がもとになっている。このことについては拙稿「法衣の画家牧島如鳩」において触れたが一部誤りがあったためここに訂正し,記述しなおしたい。この作品は龍ヶ津大器才天杜に納められているが,現在も地元の人々を中心に大切に把られている。筆者はこの作品を灰暗い堂内で初めて見たとき,普通の作品にはない何かを感じたが,今思えばそれはこの絵が祈りの対象であり未だに「イコンjとしての役割を果たしていることに起因しているのだろう。古い時代に

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