鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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ny (8) ここで如鳩の出品歴を見てみる。前記自筆年譜(注6参照)によると「十三才の(9) 尾崎秀樹「現代挿絵考4河野通勢Jrみづゑj945号,1987年冬号,134頁(10) 大串純夫「田崎草雲先生の私生活(上)Jr南画観賞j,1936年11月号,24頁加)河野通明「三代展についてJr河野通勢=その父と子と=展図録J長野県信濃美術M 中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』岩波書庖,1996年,177頁日本■ロシア/明治を生きた女性イコン画家J(1998年から99年にかけて北海道立函館美術館,豊橋市美術博物館,千葉市美術館,足利市立美術館を巡回)に出品された。詳しくは同展図録参照のこと。頃徳島市主催博覧会に日本画を出品し入賞(カンウ)後,十五才の頃,大坂市博覧会に於て特賞銀盃受賞(大巾白衣)Jとあり早くから展覧会に出品していたことがわかる。また『牧島知九略歴』によれば,昭和3年春陽会に〈日曜来拝の図〉を出品,昭和15年より新興独立美術展(現在の汎美術協会)に属したという。戦後は第一美術協会に所属したが,同展目録を調べたところ下記のとおり出品が確認できた。昭和32年第28回展〈十字架途上の祝福〉昭和33年第29回展〈最後の晩餐〉昭和34年第30回展〈一人だに亡ぶるを許さず〉昭和35年第31回展〈誕生仏A){此土B}{浄土C}(第32回■第35回展未確認)昭和40年第36回展〈誕生〉(第37回展未確認)昭和42年第38回展〈成道〉以上が確認しえた出品作だが,白江氏によると知鳩は昭和31年,創芸協会に属しており,翌年同会が第一美術協会に合流したため以後第一美術に出品したという。また弟子の矢吹昌善氏によると昭和46年には第一美術を引退したとのことである。なお「第一美術協会略史J(r第一展j1975)には昭和32年すでに新会員として牧島省三の名がある。館,1978年同尾崎秀樹前掲書,134頁同和田寿一編「河野通勢(次郎・通明)略年譜Jr河野通勢=その父と子と=展図録J

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