鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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182点,図画写真類一一81点,織物類一一32点,その他)(注5)。大久保利通からの通フイリップ・オーウェン館長がこの寄贈を提唱した。明治6年のウィーン万国博覧会の際,政府が購入した物品を積んだ船ニール号が伊豆沖で沈没し(注3),この事故による日本政府の困窮を聞いたオーウェンの計らいによって,寄贈品が贈られることになったのである。寄贈品は,当時内務省の管轄であった博物館(現在の東京国立博物館の前身)に贈られた。当時の博物館は内山下町(現在の千代田区内幸町)にあり,寄贈品は芸術部の作品として収蔵・展示された(注4)。この時期は,我が国における博物館の創成期であり,海外の万博への参加を機に,諸外国から積極的に殖産興業のための物品や美術工芸品を収集している。『東京国立博物館百年史』によれば,この寄贈品は315点にのぼる(陶磁破璃類一一達文書「英人ドレッセル氏接遇井内掲日時伺J(注6)には,寄贈品リストと寄贈者の詳細な記録が残っており,寄贈品の全体像を知る上で重要な手がかりとなった。またオーウェンが佐野常民に宛てた手紙により,ドレッサーが寄贈品の選定や収集に関与していたことが明らかとなった(注7)。ドレッサーは,関係があったロンドス商会などへ寄贈品の提供を依頼したと考えられる。ロンドス商会は,日本,中国,ベルシヤ,パリなどに支庖を持つ,当時の英国では日本の美術工芸に関する最大の貿易商社であり,ドレッサーは同社のアート・アドバイザーであった(注8)。明治10年3月下旬,ドレッサーは,博物館で寄贈品の展示を指導し,その後日光を見学して離日直前に再度博物館を訪れた。そして「まるでサウス・ケンジントン博物館のようにJ展示ケース内に納められた寄贈品を確認している(注9)。現存の寄贈品について今回,東京国立博物館(以下東博)及び京都国立博物館(以下京博)の作品調査を行い,寄贈品と特定できる多数の作品を確認することができた。その中には,これまで由来が明らかとされていなかったガラス器や金属器などが含まれており,これら現存品の総数は69点にのぼる。内容は,向磁器類が圧倒的に多く,その他ガラス器,金属器,カーペットなどであるc(表1,2)を参照〕。以下現存する寄贈品について簡単な解説を付す。126

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