鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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f同行報告書Jや『日本工塞賓見説Jに述べられたドレッサーによる提言は,明治政つdの域に達しない。衣食淡薄の甲に較べて,乙は飲食豊能にもかかわらず,常に餓えを感じている」と述べ,I幸福は,必ずしも工作の時間を短くし高価の報酬を貧るものではない」と結んでいる(注19)C図4J。明治初期における輸出工芸品をめぐる状況府によって,どのように輸出の増大や物産開発に役立てられたのだろうか。『同行報告書』は,活版で印刷されたため多くの部数が印刷された可能性は高い。産地名と工人の名前やドレッサーが購入した物品金額についても明記されているため,強いインパクトはあったと思われる。おそらく,各地の工芸品の生産地や製造所へ送られ,閲覧されたと思われるが,製品の改善は,短期間ではきわめて難しかったのではないだろうか。西洋の生活スタイルや晴好にあった品を作れと言われても,洋風の生活を知らない日本人にとって,その実現は不可能であった。明治10年代半ば,日本の工芸品の輸出が激減することになるが,r同行報告書Jでも,年々陶磁器の質が低下していることが指摘されている。この時点でドレッサーはこの問題を予期し,日本の工芸品の海外輸出の限界を看破していたといえるだろう。ドレッサーの論点は,時間と労力をかけた精巧な工芸品の一品生産ではなく,生産地自体の近代化一一大量生産とその質の向上であった。しかし,欧米市場が求める大量の製品を,期日に間に合うように生産するには,工場の機械化や技術改良だけでなく,製品の輸送手段などのインフラが整備されなければならなかった。日本がこうした近代的な生産体制を確立するのは,明治20年代のことである。フイラデルフィア万博に派遣された納富介次郎も,ドレッサーと同じ見解を述べている点に注目したい。納富は,先進各国の出品物は,大小製造場の平素の製品を出陳したものなのに,日本ではほとんど特別製作された新製品ばかりであり,同一製品の再注文を受けてもそれに応えることもできない,という危倶をいだいていたという(注20)。『龍池会報告』についてドレッサーの提言が改めて見直されるのは,明治10年代末になって,工芸品の輸出が低下した時期である。「龍池会」の会報誌であった『龍池会報告』には,塩田真によ

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