(Dr巴sser& Holme) Jという商社を設立した。主に日本製品を輸入するために設立される「陶漆器ノ販路ヲ拡張スル方策」が5回にわたり連載されている。塩田は輸出不振の原因を,資本金の不足,貿易に関する不慣れ,国内輸送手段の不備,海外支庖の不足,大きな工場の不足,と指摘し,r日本工塞賓見説』のドレッサーの言葉を引用している。以上述べてきたように,ドレッサーの圏内視察,及び輸出拡大への提言は,明治政府の首脳が直接関わったプロジェクトであった。ドレッサーの提言は,当時の日本の殖産興業の状況が抱えていた問題点を浮き彫りにしたという点で大きな成果を残し,さらにドレッサーの言動は,龍池会のメンバーによって語り継がれていったのである。3 英国におけるジャポニスムの受容とドレッサーホーム商会についてドレッサーは,1879年2月,チャールズ・ホームと共同で「ドレッサー&ホームたこの商社は,ロンドンにショールームを開庖し,取り扱い品目には芝焼,真葛焼などの陶磁器や漆器,金属製品などが含まれていた(注21)。またこの頃,ドレッサーの2人の息子が来日し,横浜と神戸に「ホーム商会Jという日本支庖を設立したことが知られている(注22)(ドレッサーは1882年に,ドレッサー&ホームとの関係を絶った)。ドレッサーはこうして,ロンドス商会やドレッサー&ホームを通じ,日本製品の輸入ルートを開発した。これらの日英貿易ルートは,その後リパティー百貨庖における日本製品輸入の足がかりとなったのである。陶磁器におけるドレッサーのジヤボニスム受容ミントン1862年から90年までの間,ドレッサーはミントンの問磁器のデザインを手がけた。初期作品は前記したように「七宝」のシリーズで,植物文や中国風の文様をアレンジしたシノワズリー調の作品が多い。その後1870年代初頭にかけて,白磁に染付の文様を施した陶磁器のデザインを手がける。この頃の作品には,日本や中国の文様を取り混ぜた東洋風のデザインが見られ,大胆な構成図案は,日本の装飾文様研究の成果が見られる〔図5)。ミントン・ミュージアム・アーカイブには,ドレッサーが収集した-132-
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