鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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日本の画家の画帳や家紋の資料などが現存し,さらに,ヴイクトリア&アルパート美術館(以下V&A)にはミントン製品の鶴のモチーフの元となったと思われる日本の陶磁器が収蔵されていた(注23)[図6J。ドレッサーの陶磁器研究ドレッサーは,日本の視察旅行において,数多くの陶磁器の産地を見学した。V&Aには,ドレッサーが研究した日本の陶磁器の着彩スケッチが,約200点以上残されている〔図7J。これらは,ドレッサーが画家に依頼して描かせたものだが,おそらく日本人画家の手によるものと思われる。各シートには,'Imari',‘Kizeto-yaki' ,‘Banko' など,陶磁器の産地が英語で書き込まれ,文様や粕薬の特徴がよく描き写されている。現物は,ドレッサーが日本において自ら購入したものであろうと推定されるが,その理由は,このスケッチにはドレッサーが視察した産地の陶磁器が数多く含まれており,陶磁器の質も高く文様も美しく,ユニークな形のものが多いからである。また,スケッチには一冊の手帳が付属しており,日本の陶磁器の産地や特徴についての詳細なメモが残されていた(注24)。リンソープについて来日後,ドレッサーの陶磁器におけるアイデアは劇的に変化した。ドレッサーは日本陶磁の研究成果を,新しく設立されたリンソープの陶器制作において,自由かっ大胆に展開する。リンソープは1879年8月にミドルズパラに設立された。ドレッサーは,アート・ディレクターとして陶磁器のデザインを担当し,熟練の製陶工ヘンリー・ツースが製作を指揮した。リンソープ社は,いわば新興のベンチャー企業である。ミントンなどの高い技術力があったとは考えられず,陶器の質も弱く脆い。しかし,リンソープの製品は,英国の高い生産力をパックボーンとして,安価で、大規模に生産された。ドレッサーは1882年にリンソープを離れたが,同社は1889年まで続き,大きな成功を収めた(注25)。リンソープ杜は,高い失業率を抱えていたその地域の数百人の人々に職を与えただけでなく,1884年の万国工業兼綿百年博覧会(ニューオリンズ)で,世界的に認められるまでに成長した。リンソープの大きな特徴は,数種類の色が混じり合いながら流れる美しい柚薬であ133

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