注る。来日以前のデザインに比べ,陶磁器における文様の重要性は陰をひそめ,装飾の主役は紬薬が果たすことになった。慎重に調合された軸薬は,スプレーで吹き付けられ,またガス・オーブンなども使用されたという〔図8)。さらに,器の形にも大きな変化が見られる。リンソープの設立直後には,日本の陶磁器の器形を写したものが多く見られたが,次第に自由な造形が生まれてきた。北斎の冨巌三十六景の波をモチーフとした花瓶〔図9)や,動植物を浮き彫りにした器などには,真葛焼で知られる宮川香山の影響が強く見られる(注26)。さらに,花の文様が描かれ,穴が穿たれたボウル〔図10)は,伊藤岡山作の乾山写しの鉢に影響を受けたものと思われる。こうした日本の工芸品の影響を受け,ドレッサーは,陶磁器の表面のみを飾る装飾技法から脱却し,器の形から文様,軸薬に至る総合的な陶磁器のあり方を模索したといえるであろう。リンソープの陶器は,英国におけるアート・ポタリーの先駆となったが,それはアール・ヌーヴォーに先がけること20年も前のことである。もちろん,ドレッサーの活動をアール・ヌーヴォーの先駆と位置付けてしまうには短絡的すぎると思われるが,さらに今後の研究によって,ドレッサーの業績が明らかにされることが期待されよう。ドレッサーはフィラデルフィアで‘ArtIndustries, Art Museums, and Art-Schools' という講演を行っている。ドレッサーは12月5日,サンフランシスコから米郵船シティー・オブ・トウキョウに乗船したが,この船には,フイラデルフイア万博に参加していた博覧会事務局の一行が同乗し,ドレッサーと親交を持っている。同乗メンバーは,博覧会副総裁であった西郷従道ほか,事務局として関沢明清,塩田真,石田為武などである。(2) ドレッサーがこうした待遇を得られたのも,当時の博物館が,サウス・ケンジントン博物館を一つの目標としていたことに依るところが大きいと考えられる。また,サウス・ケンジントン博物館もフイラデルフイア万博において,日本の体系的な陶磁器コレクションを購入している。(3) 明治7年,ウィーン万博からの第一便の荷物191箱は,香港でニール号に積み替え(1) Wider Halen, Christopher Dresser and The CuZt of Japan, Oxford, 1988, p.185. 134
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