物師が様々な装飾を施した木枠に収めるという順で作業は進められた。「織物の下絵」という補助的な性格からこの作例は絵画としては完成度が低いと見なされ,ルドン作品としても軽視されてきた。また,幾度もの行程を経たことによってできあがった織物は画家の筆による線や色の細部を失い,織物という別の媒体によって限りなく原画に近く再現されたコピーへと変貌を遂げている。19世紀初めには染色技術が進歩し,多くの色調が安定して出されていたが,批評家アンリ・エンヌはルドンの下絵をもとに完成された衝立を,i醜悪な鈍い月光」という言葉で酷評した(注26)。染料で均一に染め上げられた色はしばしば厳しい批判の対象となった。高度な技術や伝統に支えられた芸術性を備えながら,ゴブラン織りタピスリーという分野は絵画を忠実に再現するというその使命ゆえに表現の限界を抱えていた(注27)。タピスリーをめぐってこの頃展開された論争は,色彩派と線派とが優劣を競うという古典的な絵画論にすり替わっていた。下絵画家として抜擢されたルドンはそれまでに自分が絵画の領域で試みたことを取捨選択した。彼が何をどう描くか判断する上で拠り所としたのは,国立製作所に特有の美の基準や技術を審議し,保存した美術高等評議会やゴプラン審議委員会,そして事実上の最高権力者であった美術政務次官の趣味であった。それに加えて彼には長年培ってきた独自の芸術性に対する執着があった。その結果,彼はゴブラン織り下絵に自分の表現に極めて重要な意味をもたらしたパステルや木炭,リトグラフ,そしてテンペラの特性である「ざらざらした素材感」を織布のマテイエールとして応用した。それにより,それは下絵でありながら完成品の複製というべき作品となった。彼が選ばなかったのは激しい色彩であった。扉風やパネル,またゴブラン織り衝立と肘掛け椅子の下絵以外の織物下絵では,赤や青や黄色といった鮮やかな色彩が頻繁に使用されたが,ゴブラン織りの下絵には穏やかなベージュが基調色として選ばれた。同時代のある人々はこの作品を「魅力的(delicieux,charmant) Jという言葉で評し(注28),ある人々はその色彩を「不快(deplaisant)Jだと捉えた(注29)。ルドンはこのとき美術行政から必ずしも好意的に受け入れられていなかったので,ゴブラン織りのために敢えて激しい色彩を使うことを醇蕗したに違いない。ルドンがゴプランから注文を受けたのと同じ年に,最も前衛的な性格の強い〈赤い扉風〉を注文し購入したボンゲルはアムステルダム在住の新しい芸術運動に精通した蒐集家であった。ルドンが彼に対して次のように述べたところにも,相手に応じて色彩を使い分けていたことがうかがわれる。「私はフォーヴに関心があります。しかし-149
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