鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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対して,第二の例は,記者とシンボルがある一点においてのみ接触する様子を描いている。第三の例では,逆に両者の非常に近い結ぴつきが強調され,第四の例はそれをさらに押しすすめ,記者とシンボルを完全に合体させている。これらの例からうかがえることは,記者とシンボルのつながりやかかわりを表現するための,理想的な「規範jといえるようなものは存在せず,それぞれのケースが独自に最もふさわしい表現を探究している,ということである。西方の作例は,画家たちが写本制作の現場において,記者とシンボルとの関係を表わすべく,試行錯誤を重ねてきたことを示すものにほかならない。ここで,本稿のはじめに提起した問題,すなわちシンボルが東方(ピザンティン)の福音書写本において,西方のように広く描かれることがなかったのはなぜか,という点を検討してみたい。西方と東方に見られるこのような違いは,両者が異なる仕方によってイメージをとらえ,イメージを作り上げてきたことを示している。第一に留意すべきことは,キリストのシンボルとしての神の小羊の表現もまた,東方では普及することがなかった,という点である。7世紀,トゥルッロの公会議は神の小羊の描写を禁じる決定をくだしている(注13)。なぜなら,キリストは人の形によって描かれるべきであり,それはキリストのロゴス,受肉,受難,そして死と復活を想起させるものでなければならない。ところが神の小羊は,キリストの犠牲のささげものとしての一側面を表現するものにとどまり,キリストの全体性を象徴するものではない。キリストとそのシンボル(小羊)が同価のものではないとすれば,同様に,福音書記者とシンボルもまた完全に同価のものとはいえないのではないか,という懸念が東方の画家たちの中にあったとしても不思議ではない。人,獅子,牛,鷲の「似姿」の下に各福音書が書かれた,という教父による説明はむしろあいまいであり,記者とシンボルのつながりがどのようなものであったのか,それをどのように表現すればよいのか,従うべき決定的な「規範」がなかったことも,東方の画家が積極的にシンボルを描こうとしなかったひとつの理由であろう。なぜなら,イコノクラスム以降東方の画家にとって,新しいイメージを創造すること,独自の創意工夫によって新しい図像を導入することは厳しく禁じられていたからである。従うべき「規範」がない場合には,目立った創意工夫をするよりは,むしろシンボルの表現そのものを避けることの方が賢明だ、ったかもしれない。ところが,西方ではまったく逆に,神の小羊も福音書記者のシンボルも常に描き続けられる。西方の画家は,決定的「規範」がないという事実-7-

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