の横長の風景として合理的に成立するような描かれ方をしているが,絵巻を繰り広げることによって,鑑賞者は火事場に向かつて駈付けて行くかのような感覚を覚え,先に進むほどに時間も同時に経過してゆく。その視点は,江戸市中をそのまま滑るように横に移動して行くという映画のトラッキング撮影のような平行移動をとる。これは絵巻を繰り広げる動作と呼応するものであり,合理的で明快な手法であるが「信貴山縁起」にみられるような変化と抑揚に富んだ画面構成はのぞめない。しかしながら,この移動ショットというものは,鑑賞者にその先に起こることを強く予測させる力を持ち,スピード感と緊迫感を伴って明快な物語運びに寄与するものである。その場面構成も,同様に火事を扱っている「伴大納言絵巻j第一段と多くの共通点を指摘できる。しかし,実際にこの二つの絵巻を並べて見るとき,むしろその差異は歴然としている。背景描写は,国会図書館本が建物内部の様子や大火の顛末とは直接関係しない風俗まで描き込まれているのに対し,1伴大納言絵巻」ではストーリー展開にとって必要最小限に抑制されているため,応天門炎上というショッキングな事件と登場人物の心理の描出が際立つ結果を生む。「伴大納言絵巻」は『宇治拾遺物語』の「伴大納言,応天門を焼くの事」という物語の絵画化であった。火事絵巻は詞書をもたない。ーはじめに絵ありきーであった,と考えたい。原本成立時におけるテキストの存在,不在の問題を明白にすることはできないが,少なくとも現存する火事絵巻群からそのソースとしてのテキストを見出すことはできない。テキストの絵画化ではなく,実際の火事のルポルタージュを発端とした火事風俗の絵画化といえよう。構図にも古典説話絵巻からの直接的な転用は見出せない。火事絵巻の景の大部分を占めるのは,横長い街に建物が目線に近い視点で水平に並び,その手前の通りを人物が水平に移動する,という構図である。この構図の特徴,そして風俗の絵画化はむしろ同時代の〈祭礼図〉ゃく都市風俗図〉等に関連を求めることができる。しかし,祭礼絵巻と火事絵巻には決定的な違いがある。そこに明らかな時空間展開,つまり起承転結のストーリーがあるか否かである。そのことと関連して,祭礼絵巻と火事絵巻では凡そ登場人物の向きが前者は右向き,後者は左向き,と左右逆であることに気付く。祭礼絵巻では鑑賞者の視点は祭列の見物人の視点と重なり,絵巻を繰り広げることによって行列は先頭から次々と左から現れて右へと消えてゆくのである。火事絵巻では,視点は火消と重なるように江戸市中を火事場にむかつて移動していく-162-
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