(1) I明和九年目黒行人坂火事絵」必要があり,火消たちは絵巻の進行方向である左向きに描かれる。心理的にはより絵巻の中に引き込まれるような視点であり,物語とともに進んでゆくのである。3.火事絵巻の作例国会図書館本は細部にいたるまで明確に破綻無く描きこまれており,情報量が最も多く,写し崩れと思われる部分もみられない。人物表現は温雅でその彩色には幕末期にみられるような顔料の使用は認められない。さらに描かれた風俗の詳細な検討からその制作時期は明和9年(1772)の大火直後から安永4,5年頃までの聞としたい。また,画中の川の様子から干潮,満潮の時刻を類推すると,大火のあった明和9年2ちながらも,明和9年の行人坂火事との関係を決定付けるものを画中に見出すことはできないが,成立時の行人坂火事との関係は考えられるであろう。18世紀後半の,つまり火事絵巻の中で最も早い作例のひとつと判断したい。明快に物語を展開する国会図書館本で,最後に描かれた大名屋敷の玄関式台の場面だけは,そこへと続く筋立てを正しく理解するのに困難を伴う。それは,大名火消の火の見櫓に始まり,火消大名を迎える屋敷の場面で終わる火事絵巻において,主人公と考えられる火消役大名の帰還が明確に描かれていないからなのである〔図3)。火事絵巻の作例としては唯一,ケルン東洋美術館所蔵「火消絵巻J(注3)(以降,ケルン本と記す)の終りの部分には,まさに帰還する火消役大名一行が描かれている〔図4J。さらに,同時代に作成された大名行列図の中で,最後にその行列を迎える屋敷の玄関式台の場面をともなった図巻があることも確認した〔図5)。つまり,もともと大名火消の帰還という意味をもっ場面でありながら,国会図書館本では何らかの理由で火消行列が省かれ,その存在を暗示する玄関式台の場面だけが描かれた。火事絵巻が武家による注文によって成立したことは想像に難くない。その主人公が描かれないことによって,何がもたらされるのであろうか。国会図書館本での鑑賞者は絵巻を繰り広げるうちに深夜の江戸の町を火事場へ向かつて駈けて行く。鎮火の後,夜も明け活気を取り戻した市中をゆっくり通りぬけると,最後の武家屋敷で家臣たちに出迎えられているのが他ならぬ鑑賞者自身であることに驚くのである。これは,筆者が国会図書館本を繰り広げて鑑賞した際に受けた印象にすぎず,想像の域は出な月29日,江戸目黒方面での状況とに矛盾は生じない(注2)。具体的な大火の名称、を持-163-
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