い。しかし,このことはこの絵巻の注文主が描かれなかった主人公にあたる人物であったという可能性を示唆すると同時に,鑑賞者を主人公に見立てるような絵巻が求められた可能性も示すとはいえないであろうか。この注文主と受容者の関係は,個々の火事絵巻に等しくあてはまるとは言いきれない。模本によってその制作目的に違いが生じうるということも考慮に入れなければならないであろう。しかしながら,このような鑑賞者へ与える効果を丹念に分析することによって各々の制作意図と受容者の鑑賞態度に迫ることは可能であると考える。(2) I江戸失火消防ノ景」文政12年(1829),柳川藩絵師梅沢晴峨の手になる「江戸失火消防ノ景」は,先例の単なる引き写しではなく,絵師の学習と工夫がいかんなく発揮されている点において際立つた特徴をみせる〔図6~ 8 J。晴峨本では,時空間展開に緩急がつけられ,特に前半の火がかりまでの場面にスピード感と緊迫感をより強く覚える。これは鑑賞者の視点の動きを意識した巧みな画面構成によって視覚効果を上げることに成功しているからである。まず,前半の火事場までは個々のモチーフが意識的に左向きに描き直されている。導入部,絵巻の進行方向とは逆向きに駈けてくる御使は省かれて,火事場へ走る二人の火消が現れている〔図6J。犬も火消といっしょに走っており,炎と煙の上を飛ぶ鳥も進行方向へと向きが変えられているのは晴峨本のみである。導入部ではより低い位置に強い前傾姿勢で走る人物が間隔をあけて配されることによってスピード感が強調され,火事場に近づくにつれ人物描写の密度は増し,大きな雪崩となって,クライマックスへと向かつてゆく。そして火がかりの場面では画面上方へと視点を引きつけるように屋根の上の火消たちを描き出している〔図7J。さらに終盤では火消たちは画面下方へと次第に消えて行き〔図8J,全体が富士山の形のような画面構成となっている。絵巻の導入と終盤にかかる霞はフェードイン,フェードアウトの効果をあげるものであるが,この富士山形の画面構成を形作るための道具としても効果的に利用されている。導入部と終りの部分では上方の霞を特に厚く垂れ込めさせ,火消たちが活躍する中程の場面では,舞台の幕があがるように霞は上へとひいてゆく。火事絵巻では,燃え盛る炎と煙の空間を折り返し地点にして,風上と風下の関係は164
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