鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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左右逆転し,前半部で左手が風上であったのが,後半では右手が風上であるような設定で描かれている。晴峨はこの解釈を押し進め,より明確な形で鎮火前後の様子を再現した。火がかりの場面,通りを挟んだ二軒の屋根の上は,奥のほうには武家火消が,手前側には町火消がそれぞれとりついている。それら火消達は長い火の海のあと,焼け止まり長家の光景ではそのまま消し札に入れ替わっている。つまり,火消たちと家屋との関係が,画面の左右を逆にした形で,呼応しているのである〔図9,10J。これによって鑑賞者は大名屋敷から出発して火事場へと駈付け,鎮火後はまたもとに戻ってくるかのような設定となる。晴峨本の人物は,その激しい動きの瞬間が速い筆致で生彩を持って表わされており,単なる引写しにしばしばみられる写し崩れ,表現の鈍さ暖昧さ,考証上の組踊も見出すことは出来ない。水原賓勝「江戸失火ノ景J(文政3年)と佐久間晴巌「江戸大火賓影J(天保9年)との比較をしてみよう。三つの絵巻共に,火事場へ向かう馬上の御使番が同じ位置に描かれている〔図11,12, 13J。賓勝本と晴嵐本をみると,三つの作品が同じ先行作品を引写したものであることが想像できる。これらに比べると,晴峨本での描写は正確で、生彩が感じられる。馬上の人物は,より前屈みに馬と接近して描かれ,その周囲の描写は整理され,スピードと緊迫感が強調されている。正確さの点からは,その陣笠に注目したい。賓勝本では写し崩れがみられ,笠の裏表の関係が間違っている。晴巌本では形状に誤りはないが,その彩色からは絵師が御使番を描くことを意識していたとは思えない。御使番は火消達の進退を左右するほどの力を持った重要な役目であり,その陣笠の裏側に金を塗っていたことから江戸の人々から裏金ーと呼ばれていた。夜の火事の現場で現爽と馬を駈ける御使番の陣笠は,馬上提灯に照らされて一際金の輝きが目をヲlいたのであろう。晴峨本を見ると,わずかに見える陣笠の裏側には確かに金泥が塗つである。他の火事絵巻には見られないことでもあり,これは現実の火事場の光景を知っていなければ描けないことであったと思われる。他の火事絵巻では町火消は基本的には先例の図を写し取っているようで,一番組,二番組が登場しており,武家火消はどこの家か判別できないような暖昧な描かれ方をされている。晴峨本の火消たちは,町火消の組も異なり,武家火消も容易に特定できる。その武家火消は,藤堂家(伊勢,津藩),宗家(対馬藩),佐竹家(出羽,秋田藩), 立花家(筑後,柳川藩)であり,まさに何れも江戸下谷に近接して江戸屋敷を構えている。町火消は,下谷一帯が持ち場の八番組勢揃いに加えて十番組のを組がみられる。

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