鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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phu ~18日)の戯文が書き込まれた唯一の作例である。この絵巻は抵孤仙による高延元年しミ。を組は,立花家上屋敷の北側に隣接する地域が受持ちとなっているため,描かれたものと思われる。そしてやはり,ここでの主人公は立花家の武家火消である。火事場の最前線の屋根に,怯むことなく炎を脱み付けて仁王立ちする立花家の纏持ちが,その表情も勇ましく描かれている〔図9J。最後に梯子乗りを披露している火消は,当時江戸で評判の前田家お抱え加賀鳶であり,正確かつ詳細に描き出されている〔図14J。他の火消と比べて明らかにその男振りのよさを意識した顔立ちと髪型,がっしりとした身体つきに描き分けられていて,興味深い。ここまで具体的であると,実際の火事との関係も推定可能と思われるが,それはこの絵巻の制作意図との関連で5章で述べた4.火事絵巻の絵師たち絵師を特定できる作例を見ると,ある共通点が浮かび、上がってくる。仙台藩の佐久間晴撮,松代藩の三村晴山,柳川藩の梅沢晴峨,そして江戸の町絵師長谷川雪堤,これらの絵師は,木挽町狩野家の晴川院養信のもとでつながる。晴川院の『公用日記』によると,三人の御用絵師は1820年代から30年代頃,晴川院のもとで修行中であり,長谷川雪堤も,天保15年(1844)の記載から,晴川院のもとで仕事をする関係にあったことがうかがえる(注4)。松浦家伝来「江戸火事之真態」の作者狩野休雪の画歴については不明であるが,同家図書目録からこの火事絵巻は松浦静山が事和3年(1803)に狩野休雪に命じて作らせた模本であることが推測される(注5)。休雪本は諸本の中でも晴山本と著しい近似性を持つため,やはり木挽町狩野家との関連を類推することはできる。さらに,真田家に伝わる「皆、後の巻」の奥付には,この絵巻が狩野家の写しであり竹沢養渓の画であると記されている(注6)0 r古画備考四十三狩野門人譜』によると,竹沢養渓という絵師は,松平定信に仕えており,r公用日記』文政11年(1828)の記述(注7) にもその名をみることができる。しかし,写し写されるといった関係を木挽町狩野家中だけで考えるわけにはいかない。三井文庫所蔵「火消絵巻」は,画中の空白部分に人気黄表紙作家,朋誠堂喜三二(1735(1860)の写しであるが,喜三二は江戸詰めの秋田藩士で,黄表紙や狂歌の世界で活躍した人物であり,肱孤仙は,浅草阿部川町在住の絵師で,本業は鉄砲の製造とある(注

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