鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
177/716

という地理的にきわめて近いところに集まっており,そこに人的な交流があったとしても不思議ではない。18世紀終り頃から19世紀にかけての下谷界隈の状況は,享楽的な町人文化圏と武家文化圏が隣り合わせに存在し,多数の文人墨客が住む場所であった。そこでは,武士と町人,絵師と戯作者,町絵師と御用絵師という対抗関係の融合交流による自由で間達な文化サロンが形成されていたといわれる(注9)。木挽町狩野家での模本制作の一方で,こういった文化交流の中で戯作者や町絵師の目にするところとなり,火事絵巻が写されていったと考えられるのではないだろうか。火事絵巻は何の為に描かれたのであろうか。災害の記録や報告のため,あるいは火事の恐ろしさや火事への注意を喚起するために描かれたのであろうか。火事絵巻には血をながす場面もけが人や死人や泣き叫ぶ人も登場することはなく,炎を描いた部分も控えめといえる。始まりからクライマックスの火がかりの場面まではクレッシエンド記号のように盛り上げて暗転後は生き生きとした江戸の風俗が描かれ,希望に満ちた晴れ晴れとした光景で締めくくられる。火事絵巻はむしろ,楽しみながら鑑賞するもの,これを見ることは映画を楽しむような行為であったといえないだろうか。梅沢晴峨の「江戸失火消防之景」は奥付から文政12年(1829)秋に描かれていることがわかる。その年の3月21日,江戸は空前の大火に見舞われることとなった。〈佐久間町の大火〉とよばれ,およそ37万戸が焼失,死者2800人余りという大惨事であった。火元は神田佐久間町二丁目であり,晴峨本に表わされた場所と重なる。晴峨本にみられる躍動感のある人物表現や,具体的に考証された火消たちの描写は,現実に起こった佐久間町大火に取材したものと言えるかもしれない。とは言え,それらはあくまでも絵師が絵巻の中に再現した仮想現実の世界に鑑賞者をひき入れるための道具立てであったと考えられる。なぜ、なら,江戸の火消は18世紀後半からは次第に町火消の活動勢力が武家火消を上回るようになってゆき,文政12年にあっては,大名家の火消活動は町火消に凌駕される状態であった。火事場の最前線で大活躍する柳川藩の大名火消の姿は,おそらく現実にはなかったと考えられるからである。晴峨はこのフィクションを,あたかもあったかの如く,絵巻へと織り込んで、再現してみせたのである。その8 )。柳川藩邸,秋田藩邸,平戸藩邸,さらに長谷川雪堤宅,抵孤仙宅も江戸下谷界隈5.火事絵巻の制作意図167

元のページ  ../index.html#177

このブックを見る