鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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(4) 池田宏「狩野晴川院『公用日記』にみる諸相J(r東京国立博物館紀要』第28号,(5) 平戸藩第三十四代藩主松浦清(1760~1841)の創設になる楽歳堂文庫目録をもと(6) 越後の巻奥付「悲後巻説/董狩野家之写口養渓者/董也,…以下略」(7)前掲の絵師一覧より惟房,竹沢養渓の項「文政一一年一八二八七・六此暮(8)安政文雅人名録(安政7年)書章蒼粋二編(安政6年)r近世人名録集成第四巻J(9) 江戸下町の文化的背景は下記を参照。はケルン本の制作時期を町火消が全盛をむかえる以前,文化年間(1804~18)を降らない時期と推測した。図版写真で確認する限り描かれた内容から田沢氏の説に従いたい。竜吐水の使用や馬簾のついた一番組よ組の纏がみられることなどから明和年間以降と思われるが,諸本の中では町火消の扱いが小さいこと,霞による空聞がほとんどみられないこと,画面の構成や時空間の展開がおとなしいこと,などから火事絵巻の図様が定型化してゆく以前,18世紀終り頃の作例ではないかと推測する。1993)絵師一覧に作成された図書類目録其二(旧松浦家蔵書)絵図書I絵画・絵巻物に記載。ただし,真田宝物館の貼票によれば,この絵巻は三村晴山による写しとなっている。竹沢養渓の孫,渓之助めしつる、,栄次郎あいてのため也,内々楽翁殿さた也,J 竹沢養渓は文化5年(1808)に残しているのでこの時はすでに亡くなっており松平定信を介して晴川院とは孫の代まで交流があったことがうかがえる。(勉誠杜,1976)所収西山松之助「江戸学総説Jr江戸学事典j(弘文堂,1994) 竹内誠「江戸の地域構造と住民意識Jr講座・日本の封建都市二j(文一総合出版,1983)

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