⑮ フランシスコ・デ・ゴヤのタピスリーカルトン研究タピスリーカル卜ンにおける遠近表現一一一研究者:筑波大学大学院芸術学研究科博士課程大坪はじめに本研究の目的は,タピスリーカルトン(タピスリーのための原寸大下絵)におけるゴヤの独創性の所在を指摘するところにある。フランシスコ・デ・ゴヤは,1720年にマドリードに創設された王立サンタ・パルパラ・タピスリー工場のために,カルトンを約20年間に試作も含め60点余り描いた(注1)。しかしゴヤ作品の研究において,同じゴヤ作品であるタピスリーのための仕事は規制のカテゴリーに属さぬ物として長らく扱われてきた。その根拠には,カルトンはタピスリーのための下絵であり,直接に鑑賞を目的として制作されたものではなかったということ,ゴヤのカルトンの様式が他のゴヤ作品に特徴的な彼の様式とは異なることが挙げられる。当然カルトンにはタピスリーの下絵であるがゆえの制約があった。そのため,ゴヤのカルトンはゴヤの絵画より他のカルトン画家のカルトンに近い様式を示しているように見える。しかし,ゴヤは一貫してタピスリーカルトンの仕事に「画家」である姿勢を示し続けた。その点が他のカルトン画家との明らかな違いである。18世紀の王立手工業工場における画家(芸術家)とカルトン画家(図案家)の聞には暖昧ではあるが明らかな違いがあった。王宮コレクションの狩猟画をタピスリー用に模写する,ボンベイ風の連続模様を版画をもとに図案化する,宮廷画家の描く素描やボセト(縮小下絵)をタピスリー大に引き伸ばす,他のカルトン画家の描いたカルトンを縮尺の違うタピスリー用に描き直す,これが王室雇用のカルトン画家の仕事であった。ゴヤと同時期に雇われたラモン・パイェウは,当初兄フランシスコのボセトをカルトン化する仕事を行っていた(注2)。またホセ・デル・カスティーリョは図案家としてポンベイ風の装飾からカルトンの仕事を始めた(注3)。宮廷画家フランシスコ・パイェウ,マリアーノ・サルパドール・マエーリャはボセトは描いたが,カルトンは一度も描かなかった(注4)。カルトン画家として雇用された同期の画家達の中でゴヤは第二連作から全てを任され,その時からゴヤはカルトンの納品書簡に「自分の創意による」という一文を加えるようになる(注5)0 I創意による」とは「画家が油彩鑑賞画を描くように」ゴヤが図像学的プログラムでカルトンを描くようになったこと慈-176
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