(1) 画題を意味するとトムリンソンは指摘している(注6)。それに加え,ゴヤが[油彩鑑賞画」に求めるような遠近感をタピスリーカルトンで追求したことを本研究では指摘したい。はじめにタピスリーカルトンであるがゆえに強いられた没個性の様相に触れ,ゴヤが追求したタピスリーにおける遠近表現について考察する。1.タピスリーのための下絵という制約設立当初,16世紀のフランドルの伝統に従い,図像学的プログラムをもっ神話画・英雄画を既成の絵画に基づいて制作していたタピスリー工場では,時代を重ねると共にタピスリーの装飾場所が王家の離宮に移行したことを背景として,画題を狩猟画・風俗画に変更した。1770年頃までタピスリーの下絵を描く専門画家はおらず,タピスリーのために新しいデザインを描く体制がなかったため,王宮コレクションのフランドルの風俗画,殊にウォウェルマン,テニールスの作品をタピスリー大に拡大したカルトンをタピスリーの図柄として用いていた。ゴヤのタピスリーカルトンに見られるスペイン庶民の日常生活が画題として登場するのは,ゴヤがタピスリー下絵の専門画家に任命された頃からである。しかしこの画題は特別にゴヤに与えられたわけではなく,I滑稽な快い情景J(即ち風俗画)と指定され(注7),他の画家達にも描かれたため,スペイン庶民の日常を「実生活描写主義」に則ってゴヤが創出したと論じることはできない。タピスリーの「風俗画」がフランドルの農村の情景からマドリードの同時代の情景に変わった背景には,むしろ注文主カルロス三世の政治的社会的な意図がある。これは,1760年代までの極度なフランス文化の侵略への反動として起こった国民的文化や伝統を称揚する動きへの王室側の接近であり,国王の推進する近代都市化事業の成果を記念する意図での変更であった。書面上の画題指定は漠然と「風俗画」を示唆するものだが,タピスリーの制作工程上,具体的な画題の選択は工場の絵画監督及び審査官を兼ねていた宮廷画家に一任されていたと考えるのが妥当である。少なくとも「港の情景JIマドリードの情景JI牧歌的娯楽の情景JI庶民の労働の情景」という枠は事前に課せられていたと思われる。画題は王室の趣味や流行に従っており,マリアーノ・サルパドール・マエーリャの描いた「港の連作jは,殊に地形学的風景画を好んだカルロス三世がルイ・パレ・イ・アルカーサルにヴェルネのフランスの港風景連作を真似て,スペインの港風景連作を依頼した時期と重なり(注8),ラモン・パイェウやホセ・デル・カスティーリヨ,ゴヤが「マドリードの物売りjの連作を描-177-
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