鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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中国の「山水禍」に由来する意匠である糞掃衣を日本では,1遠山の袈裟」とよんでいる。今日つくられる糞掃衣も,r遠山の袈裟」の意匠が圧倒的に多く,1糞掃衣は遠山の袈裟であるjという認識すら存在しているほどである。日本において,糞掃衣についてその意義の再確認ともいえる考え方を述べた最初の人物は,道元である。しかし道元も,当時,伝統的な袈裟がほとんど廃れきっていたこともあり,初めは袈裟をさほど重要視していたわけではなかった。袈裟は,中国での大乗化を受けて,日本においては形式だけのものとなり,本来の意味合いは忘れられていたのである。しかし道元は,宋へ渡り,中国での袈裟の作法などを目にして,袈裟の重要性を理解し,帰国後,r正法眼蔵jr袈裟功徳Jr伝衣」において正しい袈裟のあり方を著したのである。道元の糞掃衣解釈には,経典に忠実な解釈以外に,道元独自の解釈と思われるものが織り込まれており,その解釈は,現代に至るまでの日本での糞掃衣の考え方に大きく影響を与えている。道元の糞掃衣解釈を大きくまとめると,以下のようになる。① 衣財は,絹などにこだわるべきではなく,糞掃の中には絹も他の布も全て含まれる。② 糞掃衣は最も清浄な衣である。③ 檀那所施(施主から布施されたもの)など浄命なるところから得た衣財ならば,それもすべて糞掃と考える。このうち,③が道元独自の解釈である。道元は,r四分律』巻第三十九に説かれている十種糞掃を挙げ,これらを拾うことが「最第一の浄財,最第一の清浄jと述べた上で,インドからかなり離れた日本においては,このような衣財を拾うことはできないことから,r檀那などの布施によっていただいたものを用いよjとしている。しかし,こういった解釈は,伝統的な経律論においては見られない解釈である。中国で著された論典である『大乗義章』巻第十五の記述からもうかがえるように,r檀越施衣(檀那より布施してもらって受けた衣)Jは,r受けるべきではない」ものとして,糞掃衣とは明らかに区別されている。この区別は,インド以来の考え方であり,中国でも他の経典にもみられるのであるが,糞掃衣は,あくまでも,布施とは異なる,不浄な裂,不浄な場所等から拾ったものという点に意味を持っていたのである。こうしたことから考えるに,おそらくインドや中国では,糞掃衣が,本当に拾った裂でないと,糞掃衣という認識をしなかったと考えられる。しかし,道元は,完全出家主義のインドと-193-

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