年の福岡市美術館の展覧会の図録では,それらと全く同じ特徴を持った布2点(作品番号113C図1),114 C図2))と,部分的に同じ特徴を含む8点(作品香号109-111, 112, 115-118)を,ランプン産のピダであるとする説が提出されている。この説を提唱するのは,タマン・ミニ・インドネシア(インドネシアの各地の文化を紹介するパピリオンを集めた公園)のランプン館の館長マルワンシャ・ワルガヌガラ(MarwansyahWarganegara)氏である。マルワンシャ氏はジャカルタ在住ではあるが,ランプン州のトウランパワン(Tulangbawang)の王家の22代目に当たる。マルワンシャ氏は上記の10点の布について「ピダは長方形の毛布のような布で,元来,男性一般が着用するものであった。のちに高価な装飾品と共に,花婿が着用する婚礼衣装へと発展した。これは,女性用の筒形腰衣のタピスに相当するものである。ピダの特徴は,長方形であることのほかに,タビスが経縞であるのに対して緯縞であることである。J(福岡市美術館,1999)と述べている。マルワンシャ氏がピダとする布は,いわゆるピダより範囲が広い。そこで,ここからは,吉本氏とマクスウェル氏によって示されたピダは,狭義のピダと表記する。マルワンシャ氏の定義によって,ピダ、の概念が拡がったかのように見えるが,そもそも,ピダという言葉が何をさすのかを,次に検討する。2 文献における「ピダ」「ピダ」という言葉は,標準語としてのインドネシア語に存在するのだろうか。谷口五郎編「標準インドネシア・日本語辞書J(1995, Dian Rakyat)には,bidakはアラビア語起源の言葉として,rチェスの最も弱いこま」と記載されている。チェスのこまとしてのピダは,染織とはほとんどつながりを見いだせない。そうであれば,染織の世界で使われてきたピダという言葉は,標準インドネシア語ではなく,地方の言語である可能性が高い。では,ピダはどこの言葉なのであろうか。ピダの属する言語がわかれば,布の産地を知るヒントとなると考えられる。そもそも「ピダ」という言葉は,どのような文献に,いつ登場したのが最初なのであろうか。管見の範囲では,J.E.ヤスパーとマス・ピルンガデイ(J.E. Jasper and Mas Pimgadie)によるlnlandscheKunstnijverheid in Nederlandsch lndie Vol. Il (1912, De Weefkunst, Mouten & Co. , 's-Gravenhage)が,その最初の文献である(以下の引用は,ジユデイ・アキヤデイ(JudiAchiyadi)氏による英訳に基づく)。まず,ランプンの衣装の用語について述べた所で,rピダ=あらゆる階級の人々によ199-
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