鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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② 狩野永敬の研究研究者:兵庫県立歴史博物館学芸員五十嵐公一でその生没年が明らかとなり,同氏の論文「実相院の狩野永敬J(注2)で実相院襖絵が紹介された。しかし,それ以外では十二カ月花鳥図扉風(東京国立博物館),鳥類和歌画巻(高野美術館)のような僅かな作品の存在が知られるのみ,というのが現状である。そこで,本稿では先ず未紹介史料を使いながら永敬の生涯を概観する。その後,作品に基づきながら永敬を絵画史の縦の流れ,同時代の状況を見据えた横の関係の二点から考えたいと思う。狩野永敬は寛文二年(1662),狩野永納(1631~97)の長男として生まれた。その永敬について豊かな情報を与えてくれる史料に「二候家内々御番所日次記J(慶応義塾図書館)がある。父・永納に関する多くの情報を与えてくれる史料でもあるのだが,永敬は延宝四年(1676)七月二十二日条(注3)で初出する。この日,初めて二条家に参上し,描いた扇子一本を献上している。この時,永敬は十五歳。これは後の京狩野家当主を二条家に紹介するため,永納が打った布石だ、ったと思われる。その後,二傑家内々御番所日次記に永敬は求馬(注4)の名で頻繁に登場するが,貞享三年(1686)九月頃からは縫殿助の名で記される。縫殿助とは京狩野家当主の名で,この時期に京狩野家当主が永納から永敬に移ったからである(注5)。当主としての永敬の最初期の仕事としては,女二宮様新作御殿之御絵が記録されている。これは二条綱平が霊元天皇の皇女二宮(柴子内親王)を迎えるため,二条家が用意した新御殿の襖絵制作だつだ。仕事は貞享三年九月十六日に命じられ(注6),短期間での完成が求められた。永敬は父・永納の手を借りず,弟・永梢らとともにこれにあたっている。その他にも「二候家内々御番所日次記」には永敬が二条家から多くの仕事を請けたことが記録されているのだが,その中でも特に注目しておくべきものは元禄十二年(1699)八月十六日条である。この日,永敬は西本願寺大坂御堂絵の件で二条家を訪れている(注7 )。西本願寺大坂御堂(津村御坊)での仕事に対し,九条輔実と二条綱平に礼意を示すためだった。では何故,西本願寺の件で永敬がこの二人に礼意を示したのか。不思議に思えるのだが,これは九条家と二条家の系図〔表1Jを考えあわせれば了解でき狩野永敬(1662~1702)に関しては,土居次義氏が紹介された浄慶寺過去帳(注1) -11-

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