る。九条輔実と二条網平,そして西本願寺光澄は兄弟なのである。九条兼晴の子として生まれた綱平は二条光平の養子に,光澄は西本願寺光常(寂如)の養子になった。西本願寺の仕事を永敬が請けることができたのは,この血縁関係が作用したためと考えられる。また,i二(候)家内々御番所日次記J以外では仁和寺の記録「御室御記J(仁和寺)にも永敬の名が確認できる。初出は元禄三年(1690)五月七日条である。それ以降,永敬はしばしば仁和寺に参上しているが,仁和寺に永敬が出入りするようになった契機は不明である。ただ,時の仁和寺門跡・寛隆は霊元天皇の子であり,二条綱平室となった柴子内親王とは年が一つ違うだけの兄弟である。貞享三年(1686),永敬は柴子内親王を迎えるため二条家が用意した御殿の襖絵制作をしていた。このことが永敬が仁和寺に出入りする契機となった可能性はある。その「御室御記jからは,元禄四年九月に永敬が弟・永梢とともに仁和寺からの絵画注文にこたえた記録などが確認できるのだが,元禄十一年八月に永敬が弟子達とともに幾度か仁和寺を訪れていることには注意しておきたい(注8)。これが意味することについては後述する。そして永敬は元禄十五年(1702)九月十八日,四十一歳で亡くなった。突然の死だったと思われる。というのは,i二(僚)家内々御番所日次記jの同年八月一日条では,八朔のお札のため長男・永伯とともに通例の知く二条家に参上した永敬が記録されているからである。以上が永敬の生涯に関する概略である。これらを踏まえ,永敬の画業について考えてゆきたい。先ず,歴史の縦の流れの中で捉えてみよう。永敬は山楽から始まる京狩野家の四代目当主であったことは,彼の仕事に大きな影響を及ぼした。京狩野家は山楽以来,九条家と深い関係にあったが(注9),それが永敬の仕事を支え,そして規定したのである。〔表2)に,山楽から永納までの京狩野家三代当主の現存作品のうち,九条家の人脈と関係ありそうな作品を示した((表1)と対照していただきたい)。この他,売立目録掲載の作品を加えるなら,その数は更に増える。勿論,京狩野家の仕事は九条家との関係だけで全て理解できる訳ではないが,九条家との関係を考えた場合に説明可能となるものが多い。永敬もその例外ではなかった。「二(候)家内々御番所日次記」に永敬が頻出すること,そこに記録される女二宮様新作御殿,大坂津村御坊の絵画制作,これらの背景にも二条家と殊に深い姻戚関係があった九条家の存在が考えられる。なぜなら,二条綱平は九12
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