Fhu っ“にかけては,相当の多様性があったはずである。加えて,東寺蔵の第三転写本である永仁本が,永仁4年(1296)の新写以来,約400年の長きにわたって懸用されていたため破損が激しく,元禄年間に,徳川五代将軍綱吉の生母の桂昌院光子が大檀越となって,仁和寺の学僧孝源(1638~1702) ,ならびに実際に図面した枚方・久修園院の宗覚(1637~ 1720)律師が新長茶羅を制作する際には,正依本としての役割を果たせなかった。その結果,孝源の勧めもあって,宗覚は,胎蔵界蔓茶羅については,宇多天皇皇子の真寂法親王の『諸説不同記』を参照して,図像確定に努めたが,r諸説不同記』はあくまで文献資料であるため,仏像を見る方向の誤解から,一部で元禄本のみ,他の現図量茶羅と配置の異なる個所が生じている。すなわち,胎蔵界蔓茶羅の蓮華部(観音)院と金剛手院の諸尊のうち,約半数の尊には侍者と呼ばれる菩薩形,もしくは明王形の小像が描かれている。ところで,r諸説不同記』では,諸尊が中台八葉院および内院に向かうように坐し,そのうえで,像から見た左右を記していたが,宗覚は,諸尊のいずれも現図系の両界蔓茶羅図のように,縦向きにとらえ,そのうえで左右とした結果,使者の位置の一部が元禄本のみ相違することとなったのである。この点は,すでに石田尚豊博士の指摘するところであるが(注3),とくに金剛手院の金剛使者や金剛軍茶利(菩薩)のように,立勢で威嚇の姿を示す尊像の位置が他の憂茶羅と違っていることが特徴である。また,r諸説不同記』は,胎蔵界量茶羅に限るので,尊形の図柄の比較的小さな金剛界蔓茶羅では非常に苦労したと推測される。おそらく,孝源僧正と相談して,様々の『金剛頂経j系の経軌を参照したことは疑いない。元禄本金剛界蔓茶羅のいわば変更点に関しては,すでに論じたことがあるが(注4) ,重要な二点を掲げておきたい。会諸菩薩の図像ではなく,第四会の供養会のそれを一部改変して用いたこと。四女尊であったのに対し,元禄本は四念怒尊に変えたこと。とくに,第一の変更点は,決して誤写や誤解ではなく,大檀越である桂昌院が女性であり,しかも阿弥陀如来を念持仏としていたため,本来は四仏以外は女尊表現とす(1) 第一会の成身会の西方輪(阿弥陀如来輪)の囚親近菩薩の図像を,通常の成身(2) 第八会の降三世掲磨会の外院四隅の四尊は,経軌や従来の多くの蔓茶羅では,
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