鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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南西大威徳明王となっており,石山寺版をはじめ,わが国の八十一尊霊茶羅の多数系に属することがわかる。ところで,この両界量茶羅図には,貴重な縁起と識語が付されており,その伝来を知ることができる。縁起は,やや長文なので,重要な個所のみを表記しておく。今模写之原本者,河州観心寺横本院所珍蔵,高祖大師之親画,就中金界一会八十一尊蔓茶羅者,寛平法皇懸南御堂法皇御所亦号密厳恒所修供者是也。東密秘蹟,虞j畢奥儀専在一会時寛延元年成辰年十月日金剛峯寺成蓮院沙門真源謹識。両界量茶羅のそれぞれの軸際題には,次のようにある。金剛界掲磨一会八十一尊蔓茶羅弘法大師親蹟今在河川、|観心寺模本院寛平法皇於南御堂常所供修者延事元年甲子之春再写之其記在別胎蔵界此対金剛界一会八十一尊蔓茶羅者弘法大師親蹟延享元年甲子之春使沙門胤麿書写之者以上から,寿福寺現存の両界量茶羅は,空海の『御請来目録』にも記されている真言系の八十一尊蔓茶羅として,江戸中期の南山(高野山)の学僧真源(l689~1758) が尽力をして,延享元年(1744),沙門で画才のある胤躍なる者に書写させたことがわかる。真源は,高野山の南山声明や法式(故実)に通暁しており,成蓮院に住して密教聖北西烏枢沙摩明王院此号職市由斯(中略)(中略)阿闇梨真源識南山阿閣梨真源謹識典の開版,声明・悉曇の普及に大きな功績をあげた。有名な慈雲飲光(l718~1804)

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