鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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3.元声会の終鷲と珊瑚会成立まで評論Jを創刊し,また譲責新聞社員として讃貰紙上に美術批評を連載し,とくに岡倉天心率いる日本美術院一派を痛烈に批判する一方,元声会の活動を全面的に支援した大村西崖である(注5)。東京美術学校の卒業生である西崖は,京都に一時赴任した後,東京美術学校へもどり教官となるが,ある酒宴で天心と衝突しけっきょく野に下り,以後多彩な評論活動を展開するようになった。やがて西崖は,かつて彼の西欧美学への契機をつくってくれた恩人でもある森鴎外との共編となる『審美綱領』を出版する。これは鴎外が雑誌『志からみ草紙』に連載していた「審美論jを発展させ,ドイツの美学者エドワルト・フォン・ハルトマンの『審美学第2巻美の哲学Jの大綱を西崖とともに編述したもので,以後鴎外の『審美新説.1,r審美極致論.l,r審美仮象論』といった一連のハルトマン美学関連の著作のはじまりとなるものであった。鴎外と坪内遁造との没理想論争に象徴されるように,記実を徹底させることよりも,作品に没せられた理想や情想をこそ重視すべきであるとする鴎外の論点は,ほぼ全面的にこのハルトマン美学を援用したものであって,大村西崖もまたその著述や批評において,こうしたハルトマンの審美論を基礎としつつ,東洋的仏教思想の自然観も織り交ぜ、ながら論陣をはったのであった。西崖の元声会,そして彼自らが発足に関わった彫塑会の活動を鼓舞支援する論評には,単なる写実を超えた理想、や情想の発現を期待する語句が目立ち,このふたつの会が西崖にとって自身の理論実践の場としての役割を担っていたことは容易に推測できる。事実,元声会の作品,とりわけ各会員たちの出品作には,景物を写実的に捉えながらも,そこに特異な風情や人事を絡ませたりしながら,作者の想いを感得できるようないわば一種の情景画的要素を多く見出すことができるのである。元声会は,大正2年4月に13回目の展覧会を開催し,幕を閉じることとなる。ただしその間,毎年順調に展覧会が開催され続けたわけではなく,途中明治37年10月の第8回展以降ほぼ3年のブランクがあり,さらに明治40年10月の第9回展開催以降にもおよそ2年の中断があった。しかしそれ以後,明治43年3月の第10回展から,閉幕する大正2年の第13回展までは,毎年の連続開催となっている。そして,実はこうした途中中断があった第8,9回展あたりが,元声会の内容自体が大きく変わっていく転換点となったようである。つまり,この第9回展において図226

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