鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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治44年7月に終刊となった『方寸J同人たちが,元声会の最終回となる第12回展(明した略画形式の試みの背景には大きな影響をもったのである。浅井が親しく交友をもった正岡子規の流れを受けた俳句雑誌『ホトトギス』には,中村不折や下村為山とともに浅井も挿絵をさかんに描き,同様にここには元声会の末期の出品者である橋口五葉,小川千蓋,平福百穂,森田恒友,川端龍子といった面々も挿絵を寄せたのであった。このように明治末期からとりわけ俳画に関する展覧会が頻繁となり,やがて神田一ツ橋通りには俳句趣味を特色とする美術庖である俳霊堂がオープンし,そこでは若い画家たちの特色ある展覧会も開催されるようになった。またこの俳面的傾向は,当時の漫画の流行とも表裏一体のものだ、った。とくに小杉未醒は,当時にあってはすでに北沢楽天に肩を並べる新進の漫画家であり,百穂,恒友,龍子らもこの時期さかんに漫画を描いていたし,未醒ときわめて近い関係にあった小川芋銭なども,まず漫画家として世に知られるようになっていたのであった。とりわけ当時の新聞や雑誌において,彼らは漫画家としての健筆をふるったのだった。芋銭について言えば,先の『ホトトギス』にあっても早くから俳句,挿絵,図案などの公募に入選し,それらが掲載されているし,このほか明治末から大正初期にかけてきわめて多くの新しい意識をもった画家たちが,この俳画や漫画に,余技というのではなく,むしろ積極的に新たな絵画世界を求めて手を染めていたのだ、った。ここまで述べれば識者にはほぼ見えてくると思われるのだが,実は元声会の末期の出品者たちは,明治40年5月から発刊されるようになる月刊美術同人雑誌『方寸』に参加した同人たちとほぼ重なってくるのである。『方寸Jは,東京本郷の駒込千駄木林町の石井柏亭宅を発行所として,山本鼎,森田恒友の3人によって創刊された。そして翌年には,小杉未醒,倉田白羊,平福百穂らが同人に加わり,その後織田一磨,坂本繁二郎,美術評論の黒田鵬心らが同人として参加した。ここに見るように,元声会会員の柏亭,百穂,さらに出品者であった恒友,未醒,白羊らが『方す』の中心で活動していたわけで,先に元声会と『方寸』とが重なるなどと言ったが,実のところ明治45年5月)にこぞって出品し,さらにそれに共鳴する若い画家たちも一緒に出品参加したとみるべきで,r方寸Jの活動を終えた画家たちの多くが,元声会の最終回に流れ込んだともいえるのだろう。つまり元声会の末期の傾向には,r方す』の活動の中にあった,装飾画への憧僚,さらに漫画との強い関わり(注8),さらには創作版画への志向といったものがそっくり入り込んで、いたといえるのだ。そしてこうした要素こそ228-

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