が異なっている点に注目したい作品だが,そこに菊,萩,荻,桔梗,藤袴,女郎花などの秋草が丁寧に描かれている。これら秋草のうち,菊は永納作の菊水図扉風〔図2 ),萩と荻は永納作の十二カ月歌意図扉風の八月図〔図3)に先例があり,その表現は近しい(注10)。胡粉で盛り上げられた菊の花弁,葉脈が金泥引きされた菊の葉,荻の葉と花の彩色処理などの表現は同じである。つまり,この秋草図扉風は永敬が父・永納から学んだ作画技術を基盤にして描いた作品なのである。その意味では,永敬が正当な京狩野家の後継者であることを示す作品とも言えるだろう(注11)。次に,実相院襖絵のうち群仙図〔図4)に注目したい。これは土居次義により紹介されたもので,もとは東山天皇中宮承秋門院の御殿にあったと伝えられる十四面の襖絵である。「狩野永敬筆jの款,永敬が頻用した「意在筆先J(朱丈円印)が確認できるので永敬筆であることに疑いのない作品だが,先の秋草図!弄風との違いは大きい。特に画面を作る墨線に違いがある。仙人達の衣,樹木の輪郭を象る墨線は暴力的ともいえるほど肥痩を強調したもので,秋草図扉風では見られなかったものである。更に言うなら,山楽から永納までの京狩野当主の作品でも使用例を見つけにくいものである。この線は画題との関連で採用されたと考えることもできょうが,同じ画題を描いた山雪作の群仙図扉風(ミネアポリス美術館),永納作の群仙図扉風を想起する時,これだけで全てを説明することも難しい。つまり,永敬は肥痩を強調したこの墨線を,自らの意思で絵画表現のーっとして積極的に採用したと考えられるのである。永敬がこの表現を採った理由,この表現をどこから学んだのかは興味深い問題だが,永敬は家伝を墨守するだけの画家ではなかったこと,京狩野家当主という立場にありつつ新しい表現への実験を行っていた画家だったことを,ここでは確認しておきたい。最後に,永敬が後世に残した影響について述べたい。逆説的だが,これは彼が四十一歳で亡くなったことが大きな意味をもっ。永敬の死は突然なもので,それを予期できなかったはずである。亡くなる約一か月程前,永敬は通例の如く二条家に参上していたからである。従って,突然に当主を失った京狩野家は大混乱したと予想できる。永敬の長男・狩野永伯(1687~ 1764)は永敬没後すぐに家督を継ぎ,縫殿助の名を継いだようだが当時十六歳。とても京狩野家を支えられる年齢ではなく,当主となるべき準備もできていなかった。永敬の弟子達の多くも永敬没後,京狩野家から去ったと思われるが,その中には高田敬輔(1674~1755)もいたはずである。敬輔の基本資料である『敬輔画譜』掲載の「高田敬輔翁略伝」によれば,敬輔は永敬に学んだ後,仁14
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