された形跡はない。しかし大正8年の第5回展については,美術雑誌『新作精華』第2巻第2輯(大正8年4月)が珊瑚会号を出していて,これがこの回の展覧会カタログ的な様相をもっている〔図1~ 9)。また第4回展出品の近藤浩一路「墨堤花雨Jは現在山梨県立美術館所蔵となっている。さらに管見のかぎりではこのほかの珊瑚会出品作としては,第4回展出品の小川芋銭「百魔絵巻Jcr中央美術』第6巻9号(大正9年9月)) ,第6回展出品の川端龍子「秋光揺溶」と平福百穂「王祥JC r中央美術』第6巻3号(大正9年3月)) ,近藤浩一路の「暮色J,森田恒友「枯れ董J,川端龍子「猿酒JC r美術画報j第512号(大正9年2月)) ,あるいは第7回出品の森田恒友「山雲帖JU美術画報.144編巻7(大正10年5月)) ,第8回展出品の川端龍子「鶏舎Jcr都新聞』大正11年10月27日〕などの図版を見出す程度である。そのため実際にその出品作品の内容を細かく検討することは,基本的にほぼ不可能であるといえる。ただ当時の新聞・雑誌の展覧会記事の記述や,会員たちがこの時期出品していた文展・帝展,あるいは院展といった他の展覧会の出品作などから珊瑚会出品作品の内容をある程度類推することは可能である。だが限られたこの紙面でこうした類推を細かく検討することはできないので,ここでは当時の資料を通覧した上で,あえて珊瑚会のとくに特色となるような傾向として,装飾画的傾向と漫画的傾向というふたつの側面をあげてその内容を簡単に述べるにとどめたい。①装飾画的傾向珊瑚会のメンバーの中で,その展覧会においてあざやかな色彩を駆使して装飾的な画面を創り上げ発表していた画家は,けっして多くはない。ただ明治末から大正初期にかけて,とくに当時の新しい装飾絵画への関心を強めていた画家は,珊瑚会の画家のなかにも見出すことはできる。先に述べたように明治40年に太平洋画会中心に結成された日本装飾美術会にも平福百穂,森田恒友が中心メンバーとして参加していたし,白馬会洋画研究所から太平洋画会研究所に転じた鶴田吾郎は,明治末期は味の素の広告部の社員でもあり,図案や装飾的な仕事に従事していた。実際の珊瑚会出品作品の中でも,第5回展の川端龍子の「風光(日比谷公園)Jc図いるし,同展の名取春仙の「緑の裡の光りJC図6)は,緑青をふんだんに使った樹木のなかに金泥で塗りこまれた大仏が描かれるというきわめて装飾的な画面となってい5 )は,金泥の色彩の階調に装飾的効果が出たものと当時の展覧会記事で評価されて230
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