たようだ。龍子と春仙のふたりは,とくに珊瑚会へもこうした強烈な色彩を用いた装飾性の強い作品を多く出品していたといえる。②漫画的傾向漫画,あるいは俳画,さらには挿絵なども加えたより広い意味での漫画的な傾向を考えてみた時,実は珊瑚会のメンバーの全てが,なんらかの形でこうした傾向に関わっていたといえる。つまりこのような一種漫画的な略画形式への志向は,珊瑚会のきわめて顕著な特色といってもいいだろう。先にも述べたように,r方寸』に関わった森田恒友,平福百穂,r国民新聞』その他の雑誌に挿絵や漫画を描いた川端龍子,その龍子と近かった鶴田吾郎,雑誌『太陽』などに挿絵や漫画を描いた小川千蓋,激石の新聞挿絵なども担当し,瓢逸な漫画表現も試みた名取春仙,泰文社で開催された俳画展覧会などに竹久夢二らとともに出品していた山村耕花,そして太平洋画会会員でもあって,文・帝展,二科展などにも洋画を出品し,大正から昭和にかけて漫画家として大活躍するようになる池田永治(牛歩),さらに珊瑚会の途中からの参加者として,当時すでに新進の漫画家として名戸を博していた近藤浩一路,池田と同様に太平洋画会会員として洋画を描きながら,当時さかんに漫画も描いていた石塚翰というように,いずれも程度の差こそあれ,漫画風の略画には手を染めていたのだった。また珊瑚会が発足した翌大正5年に上野松坂屋で開催され,東京漫画会発足のきっかけとなった漫画展覧会には,池田永治,平福百穂,) 11端龍子,名取春仙,小川芋銭,小川干蓋,近藤浩一路,石塚翰ら珊瑚会のほとんどのメンバーが出品していたのであった。実際の珊瑚会出品作のなかにも,第5回展の池田永治の「春惜絵巻J(図2Jのように白描風のまさに漫画的表現をもっ作品を見出すことができ,このほか珊瑚会展に対する新聞や雑誌の各展覧会評には,それらの作風のなかにある漫画的要素を指摘する文章を頻繁に見出すことができる。こうした珊瑚会における漫画的特徴を象徴する出来事が,当時における漫画界の寵児であった岡本一平の大正13年の第9回展からの参加である。岡本は新加入にも関わらず,珊瑚会には異例の厚遇で迎えられたようで,会場の第2室をほぼ占有する形で「雑詩十題」などの作品を出品していたという。ただ,珊瑚会におけるこれら漫画的画風は,周囲においては試作的,余技的なものととらえられるむきも少なくなかった。美術雑誌などの指摘や論評のなかには,こうした作風をっきぬけるものをかれらの作品(本画)に期待するというようなニユアン-231-
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