鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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⑫ アメリカにおける日本美術批評一一サダキチ・ハル卜マンを中心に一一研究者:早稲田大学曾津八一記念博物館助手本美術や日本文化に対する興味を,中世世界への憧慢などの諸現象と含めて「アンチ・モダニズム」という概念に総括している(注1)。しかしリア}ズの論は,あくまで教養ある上流階級が共有して抱いた「手応えのある生活jに対する欲求を論じたものであった。岡倉天心やフェノロサを中心とするいわゆるボストン・ブラーミン(Bos-いない独学の批評家であった。彼はブラーミンどころか,ニューヨークのボヘミアンを謡歌していた。そしてボストン・ブラーミンたちが,現実のアメリカから日本や中世世界へ逃避したのに対して,サダキチの視線はつねにアメリカに向いていた。サダキチ・ハルトマンは,新聞,雑誌,著作を通じて,当時の美術,写真,演劇,詩,小説などを論じた。彼の幅広い興味が反映して,その研究も多岐にわたっている。主要なものとして,サダキチの遺族が遺稿等を寄付したカリフォルニア大学の「サダキチ・ハルトマン・ニューズ・レターJ(注2),彼の美術観に焦点を当てたものとしては,ジェイン・H・ウィーヴァーの論考がある(注3)。日本での研究は,太田三郎の『叛逆の芸術家ボヘミアン=サダキチの生涯1越智道雄の「サダキチ・ハートマン伝J(注4)があげられる。I サダキチの生涯は波乱に富んでいた。彼には詩人,小説家,劇作家,俳優,批評家という様々な顔があった。彼の足跡を丹念に追い,その魅力的な人物像を描き出す仕事は前述の太田氏や越智氏がすでに果たしている。本稿では,彼の日本美術への関わりに重点をおくため,経歴は概略にとどめる(注5)。カール・サダキチ・ハルトマンは,1867年,ドイツ人商人の父,カール・ヘルマン・オスカー・ハルトマンと日本人女性,おきだの次男として,長崎の出島に生まれた。父オスカーは,ライフル銃の輸入代理庖レーマン=ハルトマン商会の経営者のひとりで,長崎で新しい取引の機会を調査していた。おさだの素性はあきらかではないが,T . J.ジャクソン・リアーズは,19世紀後半から20世紀初頭のアメリカにおける日ton Brahmin)たちがこれにあたる。一方,本稿で取り上げるサダキチ・ハルトマン(Carl Sadakichi Hartmann, 1867-1944)は,日独混血の移民であり,大学教育を受けて志郁匠子-237

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