鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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サダキチを産んだ翌年に世を去っている。その後,サダキチは兄タルー(T訓)とともに,父の故郷ハンブルグに送り返される。オスカーは1873年に再婚し,息子たちを彼らの祖母と叔父に託した。サダキチは祖母アマリーに教育を受けた後,キールの海軍兵学校に入学するが,厳しい規律に耐え切れず、パリへ逃亡してしまう。見かねた父は,1882年,わずか14歳のサダキチをフイラデルフイアの親戚のもとへ送った。フィラデルフイアでは伯父の家で暮らすが,まもなく伯父も死去し,サダキチは仕事を転々としながら,図書館で本を読みあさったという。1884年には,古本屋の主人の勧めでウオルト・ホイットマンを訪問した。その後もサダキチは度々ホイットマンを訪ね,1895年には『ホイットマンとの会話(Conversationwith Walt Whitman) jを出版している。85年から88年の聞には,数回ヨーロッパを旅行し,演劇,文学,絵画の研究をした。1889年からはニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジに居を定め,本格的に著作活動をはじめる。92年,アメリカに帰化し,通信員としてパリに滞在し,マラルメ他,象徴主義者たちと出会う。1893年には『アート・クリティック(TheArt Critic) 1, 97年には『アート・ニューズ(ArtNews) jを創刊するが,いずれも短命で終刊している。1898年,アルフレッド・スティーグリツツに出会う。以後『カメラ・ノーツ(CameraNotes)j, rカメラ・ワーク(CameraWork) jに写真批評を寄稿する。1902年,rアメリカ美術史(AHistory of American Art) j, 1904年『日本美術(JapaneseArt) jを刊行。1912年以降は主に西海岸で著作,講演活動を続け,1944年,フロリダの前妻の娘のもとで死去した。E サダキチは,著書『日本美術j(1904年)(注6)をはじめ,日本美術について多くの論考を残した。『日本美術Jは亡き母の思い出に捧げられており,彼の日本への興味はまず,その出自に由来していると言える。「これは,大衆を対象にした最初の日本美術史であるjと序文に記されているように,サダキチがこの書で意図したのは,日本美術を分かりやすく解説することであった。しかしながら,この論考は先行の日本美術論に多くを拠っており,作家,固有名詞の表記には誤記も多く,踏み込んだ作家論・作品論はあまりなされていない。彼の特徴的な日本美術観は,むしろアメリカ絵画や写真に対する論考のなかによく反映されている。したがってサダキチの日本美術論自体を分析するよりも,それが彼自身のアメリカ絵画や写真への見方にどのような影響-238-

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