鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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(suggest) >ことである。古典的時代は過ぎ去り,日本の時代が,そのすべての暗示的輝を及ぼしたのかを考えてみる必要があろう。サダキチがとりわけ着目したのは,日本美術の「暗示性(suggestiveness)Jであった。彼は1898年に早くも「暗示性は日本美術の主要な特徴のひとつである。J(注7)と指摘している。その後の彼の「暗示性」への言及を抜粋する。「ヨーロッパの芸術家たちは,巧妙な群像配置,生き生きとした動作,力強い表現力,形体と色彩への情熱,そして陰影をつけないスケッチ風の人物描写においてさえ,日本人にひけをとってはいなかった。しかし彼らは,もっとも取るに足らない日本の絵本にさえみられる無限の暗示性には,決して到達することはできなかった。その暗示性が現代美術を征服したのだoJ(注8) 「彼ら(日本の芸術家たち)は,あたかも額縁から本当の生活を眺めるようなイリュージョンをっくり出すことに注意を払っていない。彼らはほんのわずかの描写によって,きれいな化粧着や山の風景を暗示することに満足しているのだ。文学,あるいは物に名前をつけるという簡単なことにおいてさえ,日本人は必ず,暗示的効果を引き起こすようイマジネーションを働かせる。それと同じ傾向が純粋美術にも言える。自然物を扱う際,たとえそれが取るに足らないものであっても,日本の芸術家は,表現された事物によって伝えられるもの以上のある感情を暗示したり,示そうと努める。(中略)たとえば,ほんのわずかのストロークで描かれた夏草の簡略な表現を例にあげよう。画家は現実の事物を我々に示すことに満足せず,実際に描かれたもの以上の何か,つまり花の咲き乱れた夏の野原や,草をたわませたり揺らしたりする涼しくすがすがしい風を示そうと努めているのだ。J(注9) 「レオナルドが“画家の第一の目的は,ただの平面的な表面をレリーフのように見せることだ"と書いたとき,その時代にあっては,彼は偉大なる真実を述べていた。しかしそれは結局,真実の半面にすぎない。なぜ、なら日本人は,やはり説得力のある雄弁なスタイルで,その半面の真実を証明してみせたからである。芸術の目的は,もはやイリュージョンをく創り出す(create)>ことではなく,イリュージョンをく暗示するきをもって,始まっているのだ。J(注10)このようにサダキチにとって日本美術の「暗示性」とは,描かれた事物そのものではなく,それが暗示する感情や雰囲気などであった。そして彼は,日本美術特有の「暗示性jが,西洋絵画に応用されるべきだと考えていた。たとえば,彼が高く評価して-239-

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