鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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和寺法親王に仕え高田豊前と称したというが(注12),ここで先述の「御室御記jを想起したい。元禄十一年八月,永敬は弟子達とともに幾度か仁和寺を訪れていた。とするなら,敬輔が仁和寺法親王に仕えることができたのは,永敬と仁和寺の関係があったからではなかったか,との推測が立つ。特別な縁故なく,近江日野生まれの敬輔が仁和寺法親王に仕える機会を得たとは考え難いからである。更に,のちの敬輔は画家としての実力が認められ,享保八年(1723)に法橋位,事保十八年には法眼位を与えられるが,これら僧綱位を与えたのは他ならぬ仁和寺だった。また,敬輔門下からは月岡雪鼎(1710~86)が出たが,雪鼎も仁和寺から法橋位を与えられ(注13)雪鼎門下は大きな画派となっていった。こう考えると,永敬が仁和寺に出入りしていたこと,そして若くして亡くなったことが後の絵画史に大きな影響を与えたと言えるだろう。永敬没後の京狩野家についても触れておこう。永敬の突然の死により,長男・永伯が京狩野家当主となった。その永伯は,宝永六年(1709)宝永度の内裏障壁画制作に参加している。また,作品としては,大雲寺境内図絵馬(大雲寺),富士秋景図(六波羅蜜寺),松竹梅に鶴図扉風(大分市美術館)などが知られている。京狩野家を懸命に支えた画家だ、ったと予想、できるが,その情報が余りに乏しい。脇坂淳氏の論文118世紀初頭の狩野派と永伯の動向J(注14)がその全てという現状である。今後,情報の集積が必要なのだが,ここでは永敬との関係で一つの事実だけを示しておきたい。それは二条綱平との関係である。永敬は二条綱平と関係が深かった。「二傑家内々御番所日次記Jから分かるように綱平と頻繁に会い,そこから多くの仕事を請けた。ところが,そのような関係を永伯は綱平との聞に築けなかったようだ。確かに,1二候家内々御番所日次記」には二条家に参上する永伯が記録されている。ところが,綱平の日記「綱平公記J(東京大学史料編纂所)に永伯の名が確認できないのである。ここに尾形光琳,乾山が頻出すること(注15)を考えるとその違いが際立つ。その原因は幾つか考えられる。綱平と永伯との年齢差の問題があったためかもしれない。また綱平の近くには光琳ほか優秀な画家たちがいたため,永伯の仕事に綱平が魅力を感じなかったのかもしれない。ただ,原因はどうであれ,永伯が綱平と親密な関係を築けなかったことは,京狩野家が二条家から仕事を請けられなかったことを意味する。これは,京狩野家にとって痛手だ、ったに違いない。京狩野家と九条家との関係は永敬没後も継続されたようだが(注16),九条家との関係から派生していた二条家から仕事を請けられなかったとなると京狩野家の活動範囲は確実に狭まる。つまり永敬が没したことに15

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