鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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ォーカスを多用したピクトリアリズムの作品〔図4Jは,たしかに日本の7](墨画に共通する暗示的効果をみせていた。E 写真を芸術として批評したサダキチはしかし,一方でその記録性も理解していた。たとえばf皮は「写真の使命は,結局,民主的なものである。それは他の絵画的表現をもっ媒体よりも,我々のような階級打破をめざす年代の特別な要求に応えてくれる。写真は,私の考えでは,生活や自然,建物や人々,様式,行事,現代社会のすべての活動についての,巨大で世界的な記録である。J(注17)と述べている。スティーグリッツは写真を,あくまで芸術作品と考え,写真のもつドキュメンタリーとしての要素や商業主義を極力排除し,写真を,印刷媒体を通じてではなく,美術館やギャラリーに展示しようとしていた。写真を芸術と見なそうとする,あるいは芸術写真を確立しようとする姿勢は芸術に対する一種の平等主義と言え,それはアーツ・アンド・クラフツ運動の理念にも共通している。事実,スティーグリッツは,アーツ・アンド・クラフツ運動,とりわけウィリアム・モリスに共感し,その理論を,ヴアン・ウイツク・ブルックスらと『セブン・アーツ(TheSeven Arts) j誌(1916-17)に発表していた。ただし,閉鎖的なサークルをつくり,大衆の芸術観には信頼をおかなかったスティーグリッツの平等主義は,あくまで芸術の地位に向けられたものであり,社会的な階級に向けられたものではなかった(注18)。この点で,写真を民主的なものとして一種の「記録jと捉える冷静さをもっていたサダキチは,社会的な意味での「民主主義」に呼応していたと言える。彼はまた,日本美術にも同様の「民主性」をみていた。「本当に日本には美術学校も美術批評もない。日本美術は,産業的かっ民主的で,日常生活に必要なものである。我々はそうではない。我々の美術は,少数にしか訴えかけないし,商業的な表現を除いて,教育を受けていない庶民のレベルに決して下がることはない。画家は,とくに現代のアメリカ画家は,貧困と関わる気はない。その反対に彼らは従僕とぜいたくな暮らしを切望する。J(注19)以上のように,サダキチは,写真と日本美術について,造形的には「暗示性」に,-241-

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