鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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絵J(注8)と題して,翻訳記事が紹介されている。まして壁画を日本に招来することは難しかったのである。そのため,プラングインの芸術家としてのイメージは,このあとすこしずつ変化していくことになる。つまり,日本に持ち込まれてくる作品によって,ある分野への偏りを示していくのである。それは「版画」である。上述の『美術新報Jの記事は以下のように締めくくられている。「ブラングインについて是非書き加へねばならぬことは,彼れがエッチングの方面に於ける成功である。J(注4)ここでは,それまで小さな宝石細工のようなものと思われていたエッチングで,ブラングインが大画面を実現したことを画期的としている。プラングインが得意としたポスター大のエッチング作品は,このあと俄かに注目を浴びることとなる。日本での「プラングイン=エッチング画家」というイメージ定着に寄与したのは,民塞運動で知られるバーナード・リーチである。リーチはプラングインにエッチングを習っていた(注5)。明治44年11月発行の『白樺』にリーチは「蝕銅版に就いてjと題する小論を寄せ,口絵にプラングインの「聖オースターパース寺院jを載せた上で,その技法について説明している(注6)。大正期に入っても,まだブラングインについての情報は,図版や洋書をもとにした論評や,海外からの帰朝報告にとどまっていた。たとえば大正5年1月の『みづゑ』第131号で森田恒友はフランス画壇の報告のなかでプラングインに言及している。「ルクサンブールが此の五月から其の一部を聞いて,先頃ロダンが其作品数十点を英国に寄贈したに対して英国から送って来たプランギーンのエッチング二百点許りとベルジツクの作品及び平常此のミユーゼに無いロダンの作品とを集めて陳列して居ます。j(注7)また,大正4年2月の『みづゑ』第120号では,iフランク・プラングヰンの水しかし,こういった状況は石橋和訓(注9)の帰国によって一変する。石橋が帰国した大正7年は上述した国立西洋美術館寄託のフランク・プラングイン版画104点が石橋によって日本に招来された年として,際立つてプラングインへの反響が大きかった年なのである。大正7年2月19日の『美術旬報』に石橋は「最近の英国画壇jという一文を寄せ,帰朝報告を行った。このなかで石橋は,サージェントやプラングインを紹介しつつ,第一次世界大戦の画壇に与えた影響についても述べている。そしてこれは,同年6月に三越呉服庖で開催することとなる「欧州大家絵画展覧会Jの伏線と248

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