鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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より,京狩野家の経済基盤も変化したのである。ここからは同時代の絵画状況の中で永敬を位置づけてみよう。特に注目したいのは,永敬と尾形光琳(1658~1716),尾形乾山(l663~1743)との関係である。「二候家内々御番所日次記Jには光琳,乾山が頻繁に登場する(注17)から,二条綱平を介し,永敬と彼らには面識があったはずである。実際,元禄十五年(1702)四月四日条(注目)には綱平,永敬,乾山の三人だけで酒を酌み交わした記録もある。また,周知のように乾山は仁和寺に頻繁に出入りしている。「御室御記」での乾山の初出は元禄二年三月七日条である。そして,永敬も「御室御記jには元禄三年五月七日条から登場し,仁和寺からは幾つかの仕事も請けていた。つまり,仁和寺は永敬と乾山の接点なのである。また,接点ということなら,西本願寺が永敬と光琳の接点となる。先述した「二保家内々御番所日次記」の元禄十二年(1699)八月十六日条,ここには西本願寺大坂津村御坊での仕事に対し,九条輔実と二条綱平に札意を示すため二条家を訪れた永敬が記録されていた。西本願寺光澄が九条輔実と二条綱平の弟だったからである。そして光琳だが,彼も西本願寺とは関係が深かった。光琳作の夢中富士図は略筆で富士山が描かれた作品だが,そこに示される「夢中富士のふみJは西本願寺光常(寂如)と光琳との夢の中での会話を記したもので,元禄十三年正月九日に光琳が見た夢に基づいている(注19)。夢中富士図は光琳と西本願寺光常との親しさを示す作品と理解されているが,この西本願寺光常の養子となったのが二条綱平の弟・光澄なのである。つまり,光琳と西本願寺光常との関係は,光琳と二条綱平との関係から説明可能な訳であり,同時にこれは西本願寺が光琳と永敬の接点となり得ることも意味する。以上の事実から,永敬と光琳,乾山が極めて近い位置にいたことが分かる。永敬と光琳,乾山の関係は考えるに値する状況証拠が十分なのである(注20)。とするなら,永敬と光琳,乾山は互いの作品を知る機会もあったのではないか。彼らの作品の中でそのことを示してくれるものはないだろうか。そこで永敬の新出作品,十二カ月歌意図扉風〔図5Jに注目したい。これは,畠山匠作亭詩歌を絵画化したもので,詞書は一条経冬以下十二人の公卿が担当したことを付札が示す(調書担当者は〔表3Jの通り)。絵と詞書は別紙だが,紙擦れの状態などから見て,扉風は制作当初の姿をとどめていると判断できる。また,詞書のうち,六月(清閑寺照定)と七月(庭田重保)の詞書は筆跡比較の資料不足から筆者認定を保留せざるを得ないが,16 -

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